その場の空気感

 聖書を読むとき、その場の空気感と、その場に自分がいることを

想像します。また三人の神様が別の場所で別の考えでいて、でも三人

は同じチームで、チームの勝利のため全力を尽くす。この三人がいる

ことを覚えつつ読みます。福音書ではイエス様は地上で、父なる神様

は天上で、聖霊様はイエス様に寄り添うように、野球のピッチャーと

キャッチャー(聖霊様)のように助け合いながら行動していました。

 この三人の神様を心にインプットして聖書を読むことは大切です。

このリアルな三人の人をイメージして、はじめて聖書が生きた書物

になります。それをただ何となく聖書を開いて「あの説」に基づいて

イエス様と父なる神様と聖霊様は、いつも一緒で離れることなく一人

の人の心、一つの人の考え、その人はひとりですから。

顔は三つありますが、一人ですから脳は当然ひとつです。だとしたら

ゲッセマネの園でイエス様は祈ることなく、悩むことなく、すんなり

十字架に掛かったでしょう。でも実際は全然そうでありませんでした。

もしそんな人がいたら、体は一つで顔は三つある想像上のモンスター

です。実際にはいないので聖書自体が現実離れして、その場面が想像

できない。

 そうでなく、役割のハッキリした別の三人の神が登場するドラマと

して聖書を読むなら、その場面が あざやか にイメージできます。

リアルな三人の神の内の一人の神

 12弟子たちの頭の中に「あの説」など微塵も無かった。それは

当然のことです。AC313年のミラノ勅令でキリスト教がローマ帝国

の国教になるまで「あの説」がキリスト教の教理に取り入れられる

ことはなかった。初期のクリスチャンは「あの説」に惑わされること

なく、リアルに三人の神と触れ合い、前回の「開かれた扉の向こう」

のベランダに出て、潮風に吹かれ、夏の暑い日差しに当たった人、の

ように聖書の世界をダイレクトに体験できました。その体験があった

からこそ初期のクリスチャンはどんな迫害にあっても耐え忍びました。

 それは体に刻まれている体験でした。体で覚えたことは無意識に反応

します。それは、ちょうど二次元と三次元の違いだと思う。例えば旅行

に行くとして旅行先のガイドブックの写真を見ても感動しないと思う。

でも実際にその場所に行けば感動すると思います。帰宅しても、

そのことを思い出すと再び感動がよみがえってきます。

 それと同じことで初期のクリスチャンはリアルな三人の神様を知っており、

その神様の内の一人の神イエス様を知っており、そのお方が自分の罪の

身代わりに、イエス様は少しも悪くないのに、十字架に掛かって死ん

でくださったことを、ただ頭で知るのではなく、カルバリの丘の風が

吹く血なまぐさい中、そこにリアルに30歳ぐらいの男性が全身血

だらけになって苦しんでいます。本当なら私がその木に張り付けられ

ていなければいけないのに。それを実体験できます。

開かれた扉の向こう

 開かれた扉の向こうには青い夏の海が見える。その前の扉は開いて

いる。その扉の向こうにはベランダがあって、そこに出れば美しい海

と潮風と夏の日差しがある。そこまでたったの3メートルだけだ。

ところが不思議なことに、その部屋の人は少し歩くだけなのに、その

部屋から出ようとしない。

 この人は誰かと似ているといませんか?この人は「あの説」に

しばられ聖書を理解できない人のようです。その部屋の中に居ても

ただ「美しい海の景色だなあ。」と思うだけで、ちょうど言ってみれ

ば聖書にフィルターがかかっていて、ぼやけていて、かなり現実世界

と、かけ離れていて自分とは関係ない世界で、その場に自分がいたら

ということを想像できない。

 でも、その部屋を後にしてベランダに出れば、180度海が見渡せ

潮風と夏の日差しを体験できる。そのように「あの説」を後にして

三人の神「我々」に出会えば、自分が聖書の世界の中でダイナミック

に、その場にいるように体験できる。

 その部屋から出ないように、しばりつける人の方がおかしい。部屋

の中にいるよりベランダに出た方が比較にならないほどすばらしい。