暖かく無関心なホッとする人(P君)5822話

イノッチ 「でもSLだと蒸気機関車のSLと同じなので、紛らわしいんじゃないですか?


D君 「僕も最初はそう思った。でも「名は体を表す」と言われている通り、SLと呼ばれて
    いると 、だんだんその通りの人間になっていくから、不思議なものだよ。
     イノッチは自分の事を他人から「あいつSLみたいなやつだな。」と言われたら
    どんな気持ちになる?」


イノッチ 「それはまあ、悪い気はしないですね。」


D君 「それはどうして?」


イノッチ 「SLというと、僕の中では蒸気機関車の先頭車両をイメージします。SLは
      どんなに後の車両が重くても、文句ひとつ言わないで黙々と走り続ける。
      そんなふうに他人の心配事を自分のことのように背負って走り続 けるから
      頼りになるやつなんで。」


D君   「僕は皆そんな牧師になってほしいという願いも込めてSLにしたんだ。
     牧師はいままで「先生」と呼ばれ続けてきた。これはよく考えると外国にいる
     クリスチャンから日本にいるクリスチャンを見ると、口には出さないだけで
    「聖書のマタイによる福音書23章もよく読まないあきれた人たちだなあ。」とバカ 
     にされています。
      そもそもなんで牧師のことを「先生」と呼ぶかというと、日本に最初、宣教師
     が来て宣教したとき、当時現地の住民は当然聖書を読んだことなどないので、
     宣教師のことを「先生」と呼びました。それは仕方ないことかもしれませんが、
                   現代の日本人クリスチャンはその呼び方はあきらかにまちがっています。
      そのことを指摘しない牧師もそうですが、気軽に「先生」と呼びかける信徒
     の側に根本原因があるので、そこを改善しないといけないと思ったので、SLに
     しました。SLと言われると、牧師は寝る間も惜しんで信徒のことを心配し、信徒
     のために24時間働き続ける。そのために献身したんです。信徒の側も蒸気機関車
     が24時間走り続けられるようにと、燃料となる薪(献金)を捧げるのです。
      対して牧師の「先生」のイメージは、学校の先生のようで授業時間だけ教壇か
     ら説教して、時間が終わるとまた牧師館に引っ込んで信徒のことは知らんぷり。
     そうでなく自分の家族のことは後回しにして、まず信徒のことを心配する良い
     羊飼いになってほしい。SLと先生、どちらがイエス様に似ていると思いますか?
                                  
                                    つづく