暖かく無関心なホッとする人(P君)5824話(改)

2/19(月)18:25         
D君(このことは書くべきか否か、悩んだが一番大切なことは、「イエス様が神の国に
いてほしい人だけが、神の国に入れてもらえる。」ということだと思います。ですので
イエス様の立場に立てば「ああ、こんな人が神の国にいたら嫌だなあ。私の父なる神様も
きっと同じ思いだろう。」と言って神の国から除外されます。なんでこんなことを書くか
というと、先日書いたマタイによる福音書23章問題を考えるのが不愉快な指導者が多いと思いますが、不愉快だからといって、考えないのは間違っていると思う。不愉快な思いをしているのはイエス様の方です。
 もう一度、マタイによる福音書23-8を読んでみた。「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」ここでイエス様は12弟子に向かってこう言った。つまりイエス様の弟子であり続けたいなら、「誰かが自分に向かって先生と言ってきても、そのことを丁寧にマタイによる福音書23章から説明し、同時に自分は先生ではないことを明言する責任があるということです。
そこのところをうやむやにすると大変なことになると思う。つまり自分に対して「先生」と
呼ばせる人をほっておくなら、その人はイエス様の弟子ではないことになってしまいます。


 その日には、大勢の者が、わたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって予言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。
 『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
                         (マタイによる福音書7-22~23)
イエス様が知っているのは弟子だけです。(この人たちは「主よ、主よ。」と言っているのクリスチャンでしょう。また、予言(神様に今日メッセージしなさいと言われた御言葉)出来る立場の人、悪霊を追い出すぐらい力のある人、奇蹟を行う人、これらを読むとただの
信徒ではないと思います。でもイエス様は彼らに向かって「不法をなす者ども」と言って
受け入れませんでした。イエス様の語った御言葉は全て神の国の法律です。


「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。~」(マタイによる福音書23-8)も
法の一つです。そして「呼ばれてはいけません。」だから信徒側が「先生」と呼ばなければ
問題は起きないはずです。なのに「先生」と信徒が呼んで、それに牧師が答えるから問題が
生じる。牧師も信徒もマタイによる福音書23-8を読んだことが無いのか?読んでも心に止めないんだろう。この心に止めるか、止めないかがマタイによる福音書25章に出てくる賢い5人の乙女と愚かな5人の乙女を分ける境界線だと思う。またどうして「先生」という呼び名
が良くないかというと、「先生」という人の頭の中は、ある考えで完成されていて、他人の
考え方に耳を傾ける余地が微塵もない。「弟子」はそれとは全く違い、先生(キリスト)の語る御言葉を何の疑いもなしに素直に受け入れる。それが本物の信仰。
                                    つづく


























                                     つづく