「なぜ神様は一人ということにこだわるのか?」

 創世記をよく読むクリスチャンは神様は一人ということにこだわり
ませんが、創世記をよく読まないクリスチャンは神様は一人というこ
とにこだわります。(まるでユダヤ教徒みたいです。その人は聖書を
理解できないでしょう。「我々」とは誰かわからないでしょう。この
「我々」が誰であるか知ることが聖書理解の基本中の基本です。)
これは算数で言えば1+1=2のようなことです。これしか正解はありま
せん。これを何とかして違う答えを求める人は頭がおかしいとしか言
いようがありません。
 これは受入れるという種類のものではありません。受け入れるとい
うのは自分が、どうするか選べるようなニュアンスがありますが、
これは事実ですから選びようがありません。例えば犯罪を犯している
のを警察官が目撃したら現行犯逮捕で、言い逃れできません。
本人が犯罪を犯したことを受け入れるといった種類の選べるものでは
ありません。
 この「我々」を知ることが、神様は一人ということにこだわらなく
なる秘訣です。それが聖書的です。神様も、その人が、そう思えるこ
とを喜んでいるでしょう。
 そうすると聖書の世界の中に入っていく、新しい体験ができます。