暖かく無関心なホッとする人(P君)5774話

11/17(木)10;14
D君はリモートワークが一段落し、自宅で10時の休み時間にコーヒーを
飲んでいた。☕
D君(リーダーは来月の第一日曜12/3から、礼拝を再開すると電話で知らせてくれた。
それはそれで素晴らしいことだけれど、僕が今しなければならないことは、もっと根深い
教会組織の改革にかかわることだ。僕がそれをはじめても、すぐには何も変わらないだろう
。それはまるでルターが宗教改革を始めた1517年10/31 の様だ。今でさえキリスト教の
二大勢力はプロテスタント教会48%カトリック教会22%になっているが、あれから500年
近くたってもプロテスタントは半分ぐらいしかいない。多分、残念ながらこれからも牧師の
ことを「先生」と呼び続ける信徒は残り続けるだろう。でも真剣にマタイ23章を読むなら、
指導者を軽々しく「先生」と呼びことが、どれほど教会全体に弊害を与えているかわかっていない。
 まずイエス様はマタイ23章で「あなたがたは先生と呼ばれてならない。」と、おっしゃったが、そもそも「先生」と呼ぶのは信徒側であって、指導者側が信徒に「OO先生」と呼ぶように頼んでいるわけではない。ただ信徒が先生と呼んで来たらマタイ23章を引用して、注意する責任があるが、その際、「先生」にかわる称号がないのも事実なので、注意したくてもできない指導者もいると思う。そこのところをうやむやにして今までどおり「OO先生」と呼び続けるなら、指導者側は「私は一般信徒とは違う、信徒を指導する立場にいる特別な存在だ。」と思い、一般信徒との間に一線を引くようになってしまう。信徒が経済的に苦しんでいてもどこ吹く風、「ちゃんと献金を収めるよう。」と王様のよう。そんなことを少しもイエス様は望んでいない。ここにも溝がある。その原因の一つが「先生」と呼ばれていることだと思う。
 ちょっと想像してみてほしい。もし自分が通っている教会の牧師が「OO先生」でなくて、「聖書知識に富んだ一般信徒の一人」で決して献金を求めたりしない人だったら、垣根も溝もない信頼できる人であって、つい頼りたくなってしまう。そんな人こそ主に似ていると思う。主もそんな人が教会に増えることを望んでいる。
 また信徒の側にも「先生」と呼ぶことによって弊害が生じる。それは何かというと「先生
」ということで自分も奉仕者(サーバント)の一人ということを忘れてしまっている。自分はただ教えてもらう立場、聖書は自分では難しくてよくわからないので先生に教えてもらおう。と言って家では聖書を読まないので少しも成長しない。ちゃんと献金しているんだから、あとのことは全部任せる。といった状態になってしまう。
 でなくて信徒全員がservantサーバント奉仕者という意味、教会の構成員は内臓の臓器にたとえられている。どんな小さな臓器でも必要ないという臓器はない。なのに今の教会の
姿はあまりにも牧師が力を持ちすぎている。それは牧師が「先生」と言われ、絶対者の立場
にいるから。「先生」が何か言えば、信徒の経済状況がどうであれ、どんな予算も役員会で
通ってしまう。これは現在の日本の国会の姿によく似ている。国民の経済状況がどうであれ
自民党の岸田総理大臣は自分勝手な予算をつくり、国会を通してしまう。それはあまりにも与党が力を持っているから。でなくて野党も与党と戦えるだけの力を持っていれば、正常な国会運営ができると思う。教会の役員会もそれと同じだと思う。
 一つの臓器だけ巨大化して、ほかの臓器が委縮するなら、それは病気、癌細胞がその臓器
をそうしているかもしれない。
 正常な教会の姿は各臓器が(各信徒一人ひとり)が無くてはならない存在、つまり全信徒
が奉仕者サーバントであるべき。牧師はその中の一人、決して力を持ちすぎてはならない。
持ちすぎると、巨大(癌)化してしまう。だからサーバントリーダーとなって、先頭に立つ
奉仕者になってほしいです。)
 D君はそんなことを今度再開される12月の第一日曜12/3に言いたいと思ったが、その日は
牧師も忙しいと思うので、11/23にしようと思った。
                                     つづく