暖かく無関心なホッとする人(P君)5773話

11/13(月)18:24 D君はまるで自分がルターにでもなったような気分だった。
これから嵐のような日々が始まる。でも誰かが始めないと、いつまで経っても今の
ままだ。でも今のままの教会の姿をイエス様は望んでいない。それは間違えない。
それは何かというと「マタイによる福音書23章で、イエス様がパリサイ人らが人から
「先生」と呼ばれたがっていたことに対し、そのことを忌み嫌っていたにもかかわらず
、現在の教会指導者、牧師らは昔のパリサイ人のように「先生」という名称をほしがっている。いったい彼らはマタイによる福音書23章を読んだことがないのか?読んだことはあるが
自分とは関係ないことだと思って、深く考えないでその23章を心の扉に入れないで封印しているのだろうか????でもよく考えれば、その23章を素直に読めないとするなら、そこに
は自分が受け入れたくないことが書いてあるからに違いない。D君は自分はその問題に切り込みを入れられる、数少ない一人だと自覚した。自分はクリスチャンかつジャーナリスト。
主に喜ばれる事なら何でもしたい。教会の世界で起きていることで、「これははいかがなことか?」と思っていても。もし指導者の世界で起きていることなら、それは自分とは違う上の
世界のことだからと言って、見て見ぬふりをしていていいものだろうか?率直にいうと
牧師らが自分たちのことを「先生」と信徒らに呼ばせておいて、そう言って来る信徒らに対して、「それはマタイによる福音書23章には、そう呼ばないよう書いてある。」と注意しないで、かえって喜んでいるのは職務怠慢ではないだろうか?牧師らは主に身も心も捧げた
献身者なのにイエス様が嫌がっていることをするのが理解できない?
なぜそんなことにこだわるのかというと、ペテロやヨハネなどの本当の弟子たちは直接主にふれあい、教わった指導者中の指導者。なのに彼らは「先生」とは言われなかった。もし誰かが「先生」と呼んで来たら、すかさずマタイによる福音書23章を引用して、注意しただろう。なぜなら「先生」と呼ばれる魔力を知っているから。「先生」と呼ばれると、自分が
そうでもないのに、なにか素晴らしい特別な才能があるかのように錯覚する。すると自然に
高慢になる。この高慢ほど神様に嫌われる罪はない。サタンはその罪によって神の国から
追放された。
D君は考えた。(神学校を卒業した牧師らはもちろんのこと、小さいころから親に連れられて日曜学校から礼拝に通い詰めた信徒らに、この問題を持ち出すことはできない。
が、しかし僕は30歳を過ぎてから自分から進んで一人で教会に通った、指導者たちに嫌われてもなんとも思わない、失うものはなにもない。なんのシガラミもない、思ったことを自由に発言できる立場。リーダーでさえこの問題に触れられない。
幸いなことに、コロナもだいぶ収まってきた。マスクなしでも構わなくなり、教会の賛美も再開できるようになった。リーダーからの電話で、12月から礼拝が再開されることを知った
。今度行ったら,真っ先にこの問題をもちだそう。最初が肝心。
                                    つづく