暖かく無関心なホッとする人(P君)5772話

    だが、あなたがたは「先生」と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで
    、あとは皆兄弟なのだ。
                              マタイ23-8


マタイによる福音書では「人を裁くな。」とイエス様はおっしゃった。しかしそのイエス様
がここではパリサイ人らに対し裁いている。ということは人間は他人のすることにとやかく
言わない方がいいかもしれないけど、神様はどんな小さなことでも覚え、正当な報いを
用意している。イエス様はパリサイ人らが人から「先生」と呼ばれ、そのことを喜んでいることに対し怒りを燃やしている。本当の主の弟子なら人から「先生」と呼ばれたら、すかさず、そのことを否定して「君、私のことを先生と呼ばないでくれ。私は君と同じ信徒の一人にすぎない。」というのが筋だが、残念ながらそう言う指導者に出会ったことがない。


11/06  18:44 D君はこのことを書くべきか否か、ずっと悩み続けてきたが、今日やっと
「そうか、わかった。やっぱり書くべきだ。」という確信が与えられた。それはマタイ23章に関することだった。マタイ23章というところは、主がもう少ししか、この地上に居られないので、言ってみれば遺言のような極めて重要なことを我慢していたが、最後になって怒りが爆発した。イエス様は今は我慢しているが、確実に怒りのマグマは貯まってきている。


長い間、教会の礼拝などの集会に出席していなかったから、客観的に教会の姿が見えたと思う。マタイ23章でイエス様は口を酸っぱくして、パリサイ人らが人から「先生」と呼ばれたがっているが、君たちはそうならないよう注意した。あとわずかしか地上に居る時間がない
そんな忙しい時にそういったのには理由があると思う。誰でも人から「先生」と呼ばれるのは気分がいい。自分は特別すぐれた学のある人間だ。他人を見下す。これは一回でも覚せい剤を服用したことのある人が、それをやめられなくなり、いつでもその中毒状態になったのと似ている。 だからイエス様は覚せい剤のような、自分に向けられて打ってくる「先生
」という言葉を否定しなさい、ということだと思う,。


にもかかわらず、いまだに日本では牧師のことを「先生」と呼んでいる。そう言って来る
信徒に対して、決して注意しようとしないで嬉しそうにほほ笑む。これはマタイ23章に明らかに違反している。なぜそんなことになってしまったのかというと、それは「先生」に代わる適当な言葉が無かったからだと思う。牧師は先生と呼ばなければならない、と脳にインプットされてしまった。


ある牧師がその教会の信徒に「OO先生」と呼ばれているときに、もしその場にイエス様がいたらとんでもないことになる。ということはその時、主の臨在を感じていにはないのだろうか?信徒の側にも軽々しく「先生」というのは責任があると思う。しかし残念なことに
「先生」に代わる言葉がないから。


でも最近はCEOなどという便利な言葉ができた。社長などというと誰でも自分が偉い人のように思ってしまう。でもCEOは社長の上を行く決定権を持っている。だから教会も「先生」
などという言葉にこだわることはないと思う。CEOは最高責任者。これを教会に当てはめると、牧師イコール奉仕者のトップ イコール サーバント リーダー。それだから牧師は
サーバント リーダー 長いので略して SLエスエル これからはOO先生でなくて
OOSLがいいと思う。はじめは皆なじめないかもしれないが、これを読んだ人はなるほどと思う。


人は皆、「先生」と呼ばれたい願望がある。人よりも上に立ちたい願望が。でもイエス様は
その思いは良くないことを教えた。
                                     つづく