暖かく無関心なホッとする人(P君)5737話 初期設定(三位一体説が出来上がった真実)

これは重要な事なのですが、どういうわけか時間が経つと、ブログから消されてしまうので
もう一度、記載しました。なぜこのことがクリスチャンにとってそれほど重要かと言うと、
パソコンで、なにか不具合が起き正常に動かなくなった時、そのパソコンを初期設定に戻せば、直ることがある。そのように聖書理解に苦しむとき、初期設定(創世記に書かれていることが、聖書の初期設定。教会の講壇から説教されることを、ひとまず横に置いておいて、
心を0にして、福音はともかく、空っぽの状態で創世記を読んで見る、するといままで気が付かなかったことを発見すると思う。
この5737話の三位一体説の起源と5745話は、聖書の初期設定だと思う。時々原点に立ち返り、初期設定に聖書理解も戻した方が良いと思う。
(以前から気になっていたことが、今日は時間があるので書きたいと思う。それは一週間ぐらい前書いたブログ(5722話)で、イエス様が処刑された時代、ユダヤはローマ帝国の
属国だったところまでは書いたが、そのローマ帝国がなぜ国教キリスト教にまで変貌したのか書いた以前のブログが6年も前のものなので、このブログから削除されてしまっていたので、再び書きたいと思っていた。、、、、どうしてかというと、クリスチャンは皆、なんの疑いもなく、考えもしないで、あの説(三位一体説)を「三人だけど一人なんだ。そういう
ものなんだ。人間には神のことなので理解できなくても当然。」と言うが、果たして本当にそうだろうか?創世記をよく読めば、神様の真の姿がよくわかる。なのにそれをうやむやにするのは、神様の真の姿がわかると困る人たちが出てくるからだろう。困った人たちだ。
言ってみれば脳が思考停止状態に陥っているのに、それが正常というおかしなことになっているから。誰かがその思考停止状態をやめさせなければならない。
昔、ちょうどローマ帝国時代にガリレオは、それまで誰も変だとは思わなかった「天動説」
に異議を唱え、「地動説」を発表した。今ではガリレオの考えが正しいことが科学的に証明され、それが常識になっている。それは地球から離れ宇宙全体から地球を見たから。ローマ
帝国時代は地球が宇宙の中心だと思っていたんだろう。だから今となってみれば、とんでもないことが通用していた。キリスト教もそうだと思う。昔の権力者の非聖書的な妄想によって、真実が捻じ曲げられ今に至っている。事が神の領域なだけに、疑問を感じても、なかなか口に出す人は少ない。ガリレオも、当時の彼はローマ帝国の考えに反旗をかかげたので大変な目に遭った。偶然にも、あの説(三位一体説)」もローマ帝国時代に出来上がった。
その説があるばっかりに聖書という書物がダイレクトに伝わってこない。なぜ三人の神が協力してこの世界や人間を造られたのに(創世記)、聖歌では「三つにまして、ひとりの神」と三人の異なった考えを持った人格者を、一人の人間と考えなければならないのか?普通に考えたらそんな人は精神異常者(多重人格者)のレッテルを貼られてしまう。でもそれがクリスチャン世界では、そう考えない人の方が変な人にされてしまう。果たしてそれで本当に良いのだろうか????それで僕は、現在正当な考えとして通用されている「あの説(三位一体説)」が、どのような経緯で作られたのかを検証してみたい。まず説というところが怪しい。説というのは「人間がこうかもしれない?」という
確証が無いものを、誰か権威があると言われる人が「こういうことに決定したから文句を言わないように。」と高圧的に決めるに過ぎない。地動説しかり、後のガリレオの研究によってそれは覆った。何よりもまず、聖書には三位一体という言葉はどこにも書いていない。
そしてこれは大事なことだと思う。それは弟子のペテロやヨハネ、使徒パウロの頭の片隅にも三位一体説というものは存在しなかった。だから三位一体説というものが頭の中にあるかぎりペテロたちのようにはなれないと思う。そして聖書が出来上がって、後から人間が付け足したとしたら、これはヨハネの黙示録の最後の御言葉に反する大問題だと思う。


 ユダヤ教から分かれた原始キリスト教は一神教であった。当然ながら、複雑なものは単純なものより後につくられるのであり、単純明快な一神論が三位一体説に置き換えられるのは
第4世紀になってからのこと。ヘレニズム元来の三位一体は、古代的様々な多神教宗教において現れた教理の一つである。キリスト教においては、前4世紀のプラトンのギリシャ幾何学(正三角形)を媒介し、諸国の宗教に流行した三神崇拝のヘレニズム思想の中で、ようやく後4世紀に至ってエジプトからローマ国教での「キリスト教」に移植され始め、5世紀に全体の教理として確立を見た。
 エジプトのアレキサンドレイアには使徒伝来とされる司教座が置かれていたが、この都市は「世界の結び目」と呼ばれていた。この学術都市はキリスト教と異宗教思想との危うい接点だった。ユダヤ教側は自分たちの中から、現れて来たキリスト教に対して激しく反対していたので、イエス派信徒に対するローマ帝国からの迫害に乗じて、密告はもちろんのこと、処刑の手助けも率先して行った様子が当時の資料に残されている。それなのでキリスト教側は、ユダヤ教を激しく憎んでおり、それはキリスト教の非ユダヤ化とキリスト教のヘレニズム化を強力に推し進める動機となっていた。そこで、キリスト教がユダヤから取り上げられて、ギリシャ=ローマ独自のものへと再構成される下地は十分にあった。この点で、エジプトのアレキサンドリアは諸国の宗教混交の危険地帯だった。
 当時、地中海沿岸の国々の制覇を企んでいたローマ帝国には、困った国があった。それはエジプトだった。ローマ帝国は周囲の国の宗教を否定するのではなく、それを肯定しながら、吸収し、
純粋な聖書の教えを変貌させながら、帝国として国の領土を拡大してきた。それは名ばかりのキリスト教国だった。話をもとに戻すと、エジプトの国を征服するためには、その国に
根付いていた太陽神崇拝をなんとかしてキリスト教に結び付け、ローマ帝国は曲がりなりにも彼らをキリスト教徒にさせ、エジプトをローマ帝国の国土の一部として、征服したかった
。そこで問題になるのは、エジプト国民の心に古くから根付いている「太陽神信仰」だった
。太陽神信仰とは太陽を神として礼拝することだが、太陽には「優しい日の光の朝日」と
「日中の高い所にある眩しく暑い、日」「夕方のオレンジ色に染まった幻想的な夕日」と
それぞれが違った個性を持っているように見えるが、実際は同じ一つの太陽。エジプト人は「受ける印象は違っても、実態は一つである。」という三神だけど一神ということに親しんでいた。そこに目をつけたのが当時のローマ皇帝コンスタンティヌスだった。彼は太陽神崇拝者であって、キリストと太陽神を混同していた。当然、聖書も読まなかった。また当時
アレキサンドリアは「熱した溶鉱炉」と言われるようだった。それに加え、ギリシア哲学の
中心地もアテネからアレキサンドリアに移っていた。しかもその哲学は宗教化した時期に
あった。諸国の宗教に流行した三神崇拝が一つに混じり合うヘレニズム思想の中で、ようやくAC4世紀ごろエジプトからローマ帝国に、この考えがキリスト教の中に持ち込まれ、ついに五世紀にローマ帝国の国教キリスト教の教理として確立した。
 少し歴史の時間を遡ります。、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、当時のキリスト教はローマ帝国の法令による国教化と異教排斥の前であり、帝国民の大半は依然としてヘレニズムの神々の崇拝者であって、それらの多くの異教を奉じる市民を改宗させるためなら、ヘレニズムと混じり合うのは手っ取り早い手段となった。エジプトに古くから伝わる太陽神信仰も、この方法なら頑固なエジプト国民も、キリスト教を受け入れると思ったローマ皇帝だったが、それに激しく反対し続けたのがアリウスだった。彼は「父なる神と子なる神(イエス・キリスト)と聖霊はまったく異なる神である。」と言った。アリウスの主張は「御子はあらゆるものに先立って創られたが、「父」である神には先んじていない
。」ということであった。(きわめて聖書的)しかしエジプトでは、それは容認されなかった。さらにアレキサンドリアに依存する諸都市の司教も参集して、アリウスと支持者を破門
とした。この分裂に対し、周囲の人民会議は心配し、アレキサンドロスとアリウスを和解させようとした。
 AC4世紀に入ったころ、アレキサンドリアの人民会議では、キリストも神であるとの見解が支配的となり、人民議会がハッキリと「三位一体説」を唱え始めると、執事のひとりであったアリウスは、この主張、また当時のエジプトのキリスト教のこの風潮に異議を唱えた。
だが他の執事たちは、これに反対し、人民会議としての結論を監督のアレキサンドロスに
託したが、その裁定は「キリストも神とする。」ということとなって、アリウスを破門に
処してしまった。
 こうしてアレキサンドリアのアレキサンドロスと、当時は若き執事のひとりであった 
アタナシウスはエジプト地域で古来から優勢であった、「三神一体」をキリスト教のものとする意志を明確にもった。その動機のひとつは、エジプトではキリストも神である。と皆思っていたから。都会的なヘレニズムの異教徒たちへの宣教を効果的に進めるためだった。
 当時のローマ皇帝コンスタンティヌスは太陽神崇拝者であってキリストと太陽神を混同していた上、死の直前までバプテスマを受けた、キリスト教徒ではなかったのではあるが、
この問題については積極的に関わり、自らが持つローマ皇帝の最高権力者の立場も手伝ってか、自らをキリスト教指導者と見なし、ローマ帝国内の各地の司教を小アジアの二ケーアに召集をかけた。こうしてキリスト教の教えが巨大な世俗権力の介入を招いたのは、AC325年
のことだった。会議の議事録は残されていないが、その結果はアリウスの敗北となった。
しかし、そこでまともな神学論争は行われなかったと伝えられている。アリウスの発言は
しばしば無視され、その最中には故意に退場する者もあったという。そして、最終的に判決
を下したのは、本来は部外者のはずの、ローマ皇帝コンスタンティヌスだった。それも、まとまらない議事に介入してのことであったという。議決に賛同することを拒否したアリウス
を含む三人は帝国の権力によって流罪とされる。多くの出席者は権力者としてのローマ皇帝
の意向に従って議決を承諾した。
 これが「あの説」(三位一体説)の始まりの真実です。それでもまだあなたは、あの説を支持しますか?
                                     つづく