「我々」はチーム

 「創世記では「我々」という言葉がたびたび出てきます。これはどう考えても複数の人々のことを示します。一人なら私、二人なら私たち、三人なら我々です。ということは
創世記の初めから、父なる神様、子なる神様(イエスさま)、聖霊様の三者(三人)が
いたことになります。「我々」というとき、ある種の連帯感、同じ目標に向かって全力を使うというイメージがありますが、一人ではないので他人の心の中の全てのことは分かりません。(再臨の時は父なる神様しか知らない。)
 その「我々」の最終目標は何なのでしょうか。それは罪人となってしまった人類を救うため、父なる神様が罪の全くない子なる神様(イエスさま)を地球上に送り、十字架に
つけ、血を流して死なせ、よみがえらせる。それは自分の罪のためだったことを受け入れる人を救うという壮大な目標だった。
 この目標に、ある時は子なる神様(イエスさま)は納得しませんでした。これはある人の意見に賛成しない人のようです。この時、父なる神様と子なる神様の意見は対立していました。これは明らかに二人の人です。この父なる神様の意見に、どうしても承諾しなく困った父なる神様は、この計画に納得してもらえるように、聖霊様を遣わすことにしました。これはキャッチャーはプレイングマネージャーというように、監督の意見に必ず賛同します。それだけ父なる神様は聖霊様を信頼しています。
 もし仮に神様が一人だったら、イエスさまはゲッセマネの園で、あんなに苦しまなかったでしょう。この場合、イエスさまは自分の意志を持っていなかったことになります。
ただの父なる神様のロボットになります。
 しかし事実、イエスさまは父なる神様の命令に従うことを拒み、その命令から逃れたかったのです。」