暖かく無関心なホッとする人(P君)5568話

2/26(土)10:50 D君は続けて、創世記11章を読み始めた。


 11-1  さて、全地は一つの言葉、一つの話し言葉であった。そのころ、人々は東の方
から移動して来て、シヌあるの平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。
「さあ、レンガを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにレンガを用い、粘土の代わりに
瀝青(アスファルトのような、道路の防水目的に使うもの。)を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。
われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧に
なるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つの言葉で、
このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らの言葉を混乱させ、彼らが互いに言葉が通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を
建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が人々をそこから地の
全面に散らしたからである。


D君(この箇所を真剣に受け止めれば、聖書の多くの謎が解ける。残念ながらユダヤ人は、
この箇所を真剣に受け止めないで「唯一の神がどうして我々などと言うのか?」と言って、へりくつを付けているが、ここにはハッキリ、主というお方は複数の人の集合だということがわかる。なぜ複数おられたと言えるのかというと、ここで「さあ、降りて行って、~
と他者呼びかけている。「さあ」と呼びかけたのは創世記4-22の「人はわれわれの一人のようになり、善悪を知るようになった。」という「われわれの内の誰かだ。」また、創世記1-26には「われわれに似るように、我々のかたちに、人を造ろう。」と創世記には何回も主は
複数の神の存在が示されている。」ここを真剣に受け止めれば、複数の神を主張したイエスさまを(イエスさまは父なる神様と子なる神様の複数の神を主張した。)殺害することもなかった。そんな愚かなユダヤ人と同じようにならないよう、ここを真剣に読んでほしい。
 ここには主は「我々」という(私たちなら二人だが、我々と言うから三人だと思う。)
しかもこの方々は「われわれに似せて人を造ろう。」と言って、実際に「アダム」を造った
。つまりアダム(人間)を見れば、神様の姿がわかる。同じ神の霊(父なる神、子なる神、
聖霊なる神)を持っているが、完全に同じお方ではない。(例えば、再臨の時期は父なる神
しか知らない。)このことからも父なる神と子なる神が同一人物でないことがわかる。
また、ゲッセマネの園の十字架にかかる前の祈りで、父なる神様はイエス様の必死の願いを聞き入れなかった。このことからも、二人は別人格であったことがわかる。)
                                     つづく