暖かく無関心なホットする人(P君)2447話

 9 / 6 (木)朝6時15分、D君はリーナを起こさないよう静かにベッドから降り、、、、
脱衣室に向かい、、、、、、、、顔を洗い、服を着替えた。それからダイニングに行き
、、、、台所でお湯を沸かし~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。。。。。。。。沸騰したのでポットのお湯を
入れ替え、それでインスタントコーヒーを作り、ひと口飲んだ。☕~
それからテーブルに座り、机の隅に置いてある聖書を手にした。今読んでいるところは
ヨハネの福音書だけど、1章の奥が深く1日1章は消化不良になってしまう。前に1日1章は
読んだことがあるから、十分理解できるまでは次の章に進まないことに決めた。だから
1日1章ならヨハネの福音書を読破していてもいいころだけど、まだ17章からだった。
ここまで読んで気が付いたことは二度目の十戒石板の「私のほかに神があってはならない
。」を絶対のものとして、神は一人ということを絶対譲らないユダヤ教徒たちに「私も神
なんだよ。」と丁寧に数々の奇跡と癒しで説明したイエス様に対し、益々頑固になっていくユダヤ教徒という図式だとわかった。学のないガリラヤ湖の漁師、ペテロ、ヤコブ、
ヨハネらは二度目の十戒石板にこだわらず、イエス様の奇跡、癒しを見て素直にイエス様を神の子として受け入れた。それにしてもなぜ学のあるユダヤ教徒たちは神は一人という
ことにこだわるのだろうか?出エジプト記の前の創世記では「我々」が、この世界を創造
したことがハッキリ書いてある。ユダヤ教徒たちは「どうして一人の神が我々などと言うのか?」と言って創世記を軽んじている。創世記に聖書の基礎が書いてある。一人の神に
こだわるユダヤ教徒たちと、三人の神が登場する新約聖書なのに、あの説(三位一体説)
にこだわり、なんとかして三人なのに一人と考える人たちはどこか似ていると思った。
それらの人たちが、ひとまず「あの説」を横に置いておいて、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの
ように素直に聖書だけを読んだらいいのにと思った。
                                     つづく