暖かく無関心なホッとする人(P君)2448話


 朝6時30分、D君はヨハネの福音書17章を開いた。この時イエス様は弟子たちと最後の晩餐でエルサレムのいつもの部屋でミーティングをしていた。ゲッセマネの園に行く前だから木曜日の夜のことだった。弟子たちに最後の遺言のような大事な話をし終わると、
イエス様は目を天に向け言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を
現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与え
になったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、
あなたの遣わされたイエス キリストとを知ることです。~」それからイエス様は世界が存在する以前にさかのぼり、天上で父なる神様と御一緒に持っていた栄光を思った。~
それからD君の心に止まった個所は21節で「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つになるためです。~」この節からイエス様の
中に父なる神様がおられ、父なる神様の中にイエス様がおられるから三位一体説は正しい
と主張する人がいるけど、はたして本当にそうだろうか?ここではおられいるように
という言葉が使われているので深く掘り下げてみると、おられるという意味は居られる。いるの丁寧な表現。つまり本人と同行はするけど、ある程度の距離がある状態。
いるようにという意味は居る、人がある場所に存在すること。存在するかしないかは目で
見たり、手で触ったりして初めて「ああ、そこに人がいるんだな。」ということがわかる
。ここでD君はヨハネ第一の手紙1-1を思い出した。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことば
について。」だった。弟子のヨハネはイエス様を見たり、さわったりして確かに神の御子
イエス様の存在を身近に感じた。でもヨハネとイエス様は別の存在だ。ヨハネは12弟子の中でただ一人だけ、イエス様が十字架刑で死刑にされ息を断つ最期まで見届けた。
だからほかの弟子よりもイエス様の気持ちはわかっていたと思う。心はある程度、通じて
いたと思う。しかしそれはイエス様の心の一部分に過ぎなかった。このヨハネとイエス様
の関係は、イエス様と父なる神様の関係に似ていると思った。イエス様は父なる神様の心の一部分しか知らされていなかった。なぜならイエス様は父なる神様から再臨の時期を
知らされていない。父なる神様が号令をかけて、はじめてイエス様は「今、再臨するんだ
。」と知らされるからです。結論すると、父なる神様とイエス様は心は通じ合っていたが
、父なる神様の方から見ればイエス様に全てを知らせなかった。イエス様の方から見れば
、自分と父なる神様は一つで自分は父なる神様の全てを知っている、と思っていたが実は
そうでなかった。それが証拠にイエス様が十字架刑で死刑にされた、マタイによる福音書
27-46で「三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ?」と叫ばれた
。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」という
意味である。」を読んでわかるようにイエス様ですら、完全に父なる神様の御計画を把握
していなかった。はじめに戻ると17-21ではおられいるように、とは言っているけれど
中にいる、とは一度も言っていない。だから父なる神様の中にイエス様が存在して二人は
一体化して一人ではない。ここには二人の神様がいて非常に近いが、ある程度距離がある
。イエス様は17-3で言いました。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス キリストとを知ることです。」ここにハッキリ二人の神
を知ることが永遠のいのちと書いてあります。一人の神ではないのです。二人です。
ユダヤ教徒はここを間違え、イエス様を殺してしまった。
                                     つづく