「アタナシウスの真実」

 「あの説」を説いたアタナシウスのことを、ほとんどの人はどんな人物だったか知らないで、ほとんどの人が妄信的に「あの説」(三位一体説)を説いた偉人だと思っている。アタナシウスとは、どんな人物だったのか深く掘り下げて見たいと思います。
 「あの説」のルーツはヘレニズム元来の三神一体で、古代の様々な地域の多神教宗教において現れた教理のひとつです。キリスト教においてはエーゲ文明を元に芽吹いた神概念と、紀元後4世紀のプラトンのギリシア幾何学(聖三角形)の仲立ちをし、諸国の宗教に流行した三角崇拝が一つに混じり合うヘレニズム思想の中で、ようやく紀元後4世紀頃、エジプトからローマ帝国へ、この考えがキリスト教の中に持ち込まれ5世紀にローマ帝国の国教キリスト教の教理として確立した。
 エジプトのアレキサンドリアには、使徒伝来とされる司教座が置かれてありました。 アレクサンドロスによる創建からプトレマイオス朝を経て、ローマ帝国でもギリシア文化圏に属し、プラトン哲学的な物の道理をたどって考えて行くことと聖書の比喩的解釈で知られていた。この「世界の結び目」と呼ばれた学術都市はキリスト教と多様な異教思想との危うい接点だった。
 ユダヤ教の信者は自分たちの中から出て行ったキリスト教の信者のことを激しく嫌っていたので、イエス派信徒に対するローマ帝国からの迫害に乗じて密告はもちろんのこと、
処刑の手助けも進んで行っていた。それでキリスト教側はユダヤ教側を強く恨んでいた。
それはキリストの非ユダヤ化と、キリスト教のヘレニズム化を強力に推し進める動機となった。そこで、キリスト教がユダヤから取り上げられ、ギリシャ=ローマ独自のものへと再構成される下地は充分にあった。
 この点でアレキサンドリアは諸国の宗教混合の危険地帯だった。当時アレキサンドリアは「熱した溶鉱炉」と言われた。ギリシア哲学の中心地もアテナイからアレキサンドリアに移っていた。しかも、その哲学は宗教化した時期にあった。
 AC4世紀に入ったころ、アレキサンドリアの人民会議では「キリストも神である」との
見解が支配的となり人民会議が、はっきりと三位一体説を唱え始めると執事のひとりであったアレイオス(アリウス)は、この主張また当時のエジプトのキリスト教のこの風潮に異議を唱えた。だが他の執事たちは、これに反対した、人民会議としての結論を監督の
アレクサンドロスに出したが、その裁定は「キリストも神とする」ということとなって、アレイオスを破門に処してしまった。
 こうしてアレキサンドリアのアレクサンドロスと、当時は若き執事のひとりであった
アタナシウスは、エジプト地域で古来優勢であった三神一体をキリスト教のものとする
意志を明確にもった。その動機のひとつは、エジプトではキリストも神である。と皆思っていたから。都会的なヘレニズムの異教徒たちへの宣教を効果的に進めるという目的でした。
 当時のキリスト教はローマ帝国の法令による国教化と異教排斥の前であり、帝国民の大半は依然として、ヘレニズムの神々の崇拝者であって、それらの多くの異教を奉じる市民を改宗させるためなら、ヘレニズムとまじりあうのは手っ取り早い手段となった。
 これに激しく反対し続けたのはアレイオス(アリウス)であった。彼は父なる神と
子なる神(イエス キリスト)と聖霊なる神は全く異なる神である。と言った。アリウスの主張は「御子」はあらゆるものに先立って創られたが、「父」である神には先んじない
ということであった。
 しかしエジプトでは、容認されるものとはならなかった。さらに、アレキサンドリアに依存する諸都市の司教も参集して、アレイオスと彼の支持者を破門とした。
 会議の議事録は残されていないが、その結果はアレイオスの敗北となった。しかし、 そこでまともな神学論争は行われなかったという。アレイオスの発言はしばしば無視され
、その最中には故意に退席する者らもあったという。そして、最終的に裁司を下したのは
本来部外者のはずの皇帝であり、それも、まとまらない議事に介入してのことであったという。議決に賛同することを拒否したアレイオスを含む三人は帝国の権力によって流罪とされる。多くの参加者は権力者としての皇帝の意向に従って議決を了承した。


 これが「あの説」の始まりです。