暖かく無関心なホッとする人(P君)2380話

 午前7時20分、D君は続けて考えていた。共(とも)の意味を深く掘り下げようと調べて見た。「とも=人が人の横に居て、一緒に同じ事をしている状態。」例えば同級生は共に
同じ教室で学ぶ。でも違う人だから考えている事は違う。これは再臨の時期を父なる神様
は知っているがイエス様は知らないことで、二人は似てはいるが違う人格だと解る。
D君はこれを心に置いて続きを読んだ。ヨハネの福音書1章4節「この方にいのちがあった
。このいのちは人の光であった。」「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。D君は思った。「聖書ではひらがなで「 いのち」と書いてある。ここを漢字の
命と書かないのは、漢字の命だと人間の命を連想して「命といえば限りあるもの。」と
思ってしまうからでないだろうか?でも神様(イエス様)のいのちは永遠。人間の命とは
違う、だからひらがなで書くのだろうと思った。
 「神から遣わされたヨハネという人が現われた。~」それからバプテスマのヨハネの事が書いてあった。D君が次に心に留まったのは10節の「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」ここでもはっきり御子
(イエス様、この方)が天地創造の初めからおられ、万物は御子なる神様が創造された。と書いている。これをしっかり覚えていないとないと流されると思った。それなのになぜ
使徒信条では「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず、~」と毎週教会の礼拝で言うのか?D君は時々礼拝で聞く、「神様は三位一体で三人だけど一人です。これは人間の頭
では理解できない神の神秘です。」を思い出した。教会では父なる神の中に御子なる神が
含まれているから、父なる神が万物を造られたという使徒信条は正しい、と言うがそれは
三位一体という理論があってはじめて成り立っている。でもヨハネの福音書1章2節では
「この方は、初めに神とともにおられた。」御子なる神は父なる神の中に含まれていたの
ではなく、父なる神様の横に並んでおられた。だから御子が万物を創造された。(パウロ
もへブル人への手紙コロサイ人への手紙で子なる神が万物を創造されたと書いている。)
D君は使徒信条に興味を持った。調べて見ると使徒信条というのは最初アタナシウス信条
と言われていた。それはローマ カトリックから始まった。D君の興味は尽きなかった。
「どうもこのアタナシウスと言う人が鍵を握っているようだ。」
                                     つづく