「異なった内容の最初の十戒石板と二回目の十戒石板。」

 多くのクリスチャンは出エジプト記に出て来るモーセの十戒のことを
御存じだと思います。モーセは山に登り、父なる神様が御自分の手で十戒
を石板に刻み、その出来上がった十戒石板をモーセに授けました。山から
下ったモーセが見たものは、イスラエルの民が偶像礼拝の罪を犯している
場面でした。怒ったモーセは父なる神様がモーセに授けた十戒石板を投げ
つけ砕いてしまいました。その後、再び十戒を貰うわけですが今度はモーセ
は、まだ何も刻んでいない石板を持って山に登りました。そこで再び神様
から十戒を貰うわけですが、今度は最初とは方法が違います。神様がモーセ
に、書く文章の十戒を語ります。それを聞いたモーセはモーセ自身が真っさらな
石板に十戒を刻んでいきます。これが契約の箱に収められた十戒石板です。
 ほとんどのクリスチャンは最初の十戒石板と二回目の十戒石板は同じ物
と思っていますが、実はその書いてある内容が違うかも知れません。(最初
のは砕かれ残っていないので確かなことは言えません。)それに神様は
最初の十戒石板と二回目の十戒石板は、全く同じ内容の物とは一言も語って
いないのです。これは人間が勝手に、二枚は同じ内容の物だ。と決めつけて
しまいました。
 しかし二枚は違う内容の物と考えた方が辻褄が合います。出エジプト記の
前の書、創世記には「我々」がよく出てきます。しかし出エジプト記から
「我々」という言葉は出てきません。創世記では、あれほど熱く「我々」が
地球や人間を創った事実を人間に伝えたかったのに、砕かれた十戒石板事件
を境に「我々」のことが出てきません。最初の十戒石板はモーセに渡すのが
楽しみだった神様が前もって書きました。それはまだイスラエルの民が
偶像礼拝の罪を犯す前だっだので、神様はイスラエルの民が可愛くて
しかたなかったでしょう。それで我が子のように可愛いイスラエルの民の
助けになるように十戒を刻んだでしょう。その内容は創世記と重複するところ
もあったと思います。創世記の内容の神様は人間に対して好意的、肯定的
ですが、二回目の十戒石板の内容は厳しく、とても同じ方が書いたとは思
えません。砕かれた十戒石板事件以前の神様は人に対して好意的、肯定的
でしたから、最初の十戒石板の内容も創世記に近いソフトな内容で、神様
の秘密も隠さなかったと思います。多分ですが、これは私の予想ですが、
二回目の十戒石板には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があっては
ならない。」と書いてありました。が、最初の十戒石板には、このわたしの
説明があったといます。創世記にはこのわたしと言う神は「我々」の意見
を聞いてからでないと行動しませんでした。だからこのわたしと言う事を
もっと詳しく書いてあったのかも知れません。