「疑心暗鬼」

 ときどき思いますが、もしかしたらクリスチャンで聖職者でも「あの説」
は、聖書的でないと思っているが、福音的な他教会の人から、あの教会の
人は異端だと後ろ指を指されたくないがゆえに、私は「あの説」を支持し
ています、異端者ではありません。と言うアピールをしているとすれば、
その人は自分の教会でも、他教会の人に対しても、疑心暗鬼を抱いています。
 その人は他人に対し全く心を開いていなく、心の奥底では「あの説」に
矛盾を感じていても、その事を微塵も表に出さないでいます。果たしてこれで
本当に良いのでしょうか?
 福音書のイエス様を見ると、イエス様はユダヤ教指導者に面と向かって、
「私は神の子だ。」と言ってみたり、ユダヤ教を強烈に非難して、ユダヤ教徒
から異端者などと言う生やさしいレッテルでなく、異端者の最上級の非難を受け、
最後には彼らから理由もなく殺されました。しかし主は十字架上で「父よ、
彼らをお許し下さい。彼らは自分が何をしているか知らないからです。」
と言って最後まで彼らが変わってくれることを期待していました。
 対するユダヤ教徒らは疑心暗鬼の目で仲間を見て、イエス様の事を少しでも
良く言ったものなら大変です。(ニコデモはその代表です。イエス様に興味が
ありましたが、ユダヤ人を恐れて夜ひそかに訪ねました。)皆仲間に対して
びくびくしていました。これはイエス様の態度と正反対です。イエス様は100%
父なる神様の方を向いていました。これが信仰の姿勢です。ユダヤ教指導者は
100%仲間のユダヤ教指導者の方だけを向いていました。神様の方は0%、全く見て
いませんでした。これが不信仰の姿勢です。これは危険な姿勢です。この中には
自分だけが正しいと思い、その主張に反対する人に殺意を抱いています。全ては
自分を守るためで他の人は、どうなっても構わない。これは犯罪者の心理状態
でしょう。そんな心理状態では誰もこの人について行きたい。と思わないでしょう。
 イエス様は最後まで彼らが変わってくれることを期待していました。これが
クリスチャンの目標とする姿勢でしょう。


 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(コリント1-13-7)