「迷信」

 迷信の意味は、合理的な根拠を欠いているもの。です。思い出した
ことは、福音書のどこかにユダヤ教の指導者がイエス様を憎んだ時の
ことを「彼らは理由なしに憎んだ。」と書いてあることです。この事
と迷信と、どう関係があるかというと、ユダヤ教の指導者達は、神様
は一人という迷信を信じていたので、(その根拠は無い)私は神の子
である。と言うイエス様を憎んだ。(イエス様が本当はどう言う人か
調べもせずに、ちょうど警察が取り調べも、しないで容疑者を犯人に
するような事。そこには犯人と言える理由は無い。)また、どうして
神様は一人と思うことが迷信なのかと言うと、創世記には「我々」と
いう父なる神様と行動を共にしていて、彼らの意見を聞かないと決定
出来ない、重要な神様のような方々がいたので、単純に神様は一人と
言い切れなかった。そして二回目の十戒石板の「あなたには、わたし
をおいてほかに神があってはならない。」という箇所の「わたし」を
勝手に単純に一人と判断しました。これらは合理的な、聖書的な根拠
を欠いているものです。すなわち迷信です。この迷信に冷静さを失っ
たユダヤ教の指導者はイエス様を生かしておかせず、十字架刑に処し
ました。
 何がその人を動かしているかというと、その人の信念、根底にある
考えです。それが否定されたので、ユダヤ教のため生きている、その
人自身が否定されたので理由の有り無しに関わらずイエス様を憎んだ。
 この事は、「あの説」を支持する人々とユダヤ教の指導者はどこか
似ています。両者とも合理的な聖書的な根拠を欠いているにも関わら
ず、その人の信念が否定されたので冷静さを失いました。
 パウロも昔、この冷静さを失った人でした。が、クリスチャンと
なったパウロは、この両方を知る貴重な人になりました。