暖かく無関心なホッとする人(P君)5729話

7/3(日)11:10
今日は日曜日なので、本当ならブログを書かないで体を休める日だけど、体の休みなら昨日
の土曜日に取れた。なので今日は前から気になっていたことを書きたいと思った。5719話で、使徒パウロ(救われる前の名はサウロ)が、なぜイエス様を神の一人子と認められず、十字架にかけて殺害したのは、ユダヤ教の重んじている十戒の(出エジプト記20-3の
「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」の一文に反する、ほかの神々に属する存在だと思ったから、生かしておくわけにはいかない。という論理の結果だった。でもよく考えてみると、それはパウロ側からのみ見た理論であって、父なる神側から見ると、違った見方が見える。それは主なる神様自身が、私たち(父なる神、子なる神、聖霊なる神)と言う、創世記によく登場する「我々」グループ(これらの方々が出エジプト記20-2、の二回目の十戒石板に記述された「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」のとは、一線をひく、存在してもよい神々グループだと思う。イエス様はこの子なる神様だから、父なる神様から見れば、存在してもよい神々グループの一員だから
、出エジプト記20-3の「~わたし(このわたしというのは、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三人で構成されている)のほかに、ほかの神々があってはならない。」のほかの神々には当てはまらない。なのに殺害されてしまった。それは自分の方からしか物事を見ると、本当のことがわからなくなてしまう危険性があるということ。聖書に記載されている文章は、
作者である父なる神様の視点で書かれている。なので特にモーセの十戒の「あなたには、
わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト記20-3)」の一文を注意して読まなければいけない。
                                    つづく