暖かく無関心なホっとする人(P君)5730話(砕かれた最初の十戒石板)改

12:40 D君(そもそも、このブログを書き始めたのは、今から6年前の2016/5/1のことだった。当時の僕は、教会の礼拝中に歌う讃美歌「聖なる聖なる聖なる」の歌詞、「三つにまして一人の神」というところに疑問を感じていました。創世記には「我々」という三人の神々
がこの世界や人間を創造されたことを丁寧に書いてあります。なのにどういうわけか???
三人の独立した神と考えるのは、都合が悪いのかわかりませんが(なぜ独立した神と言えるかと言うと、まず人間を創造する際に父なる神様はほかの二人の神様に、人間をどんな形に造ろうかと相談を持ちかけました。それでほかの神の意見「最初の人アダムは我々のような
形にしよう。」ということに決定されました。またイエス様が十字架にかけられる前夜、
ゲッセマネの園でイエス様は十字架刑から逃れられるように、父なる神様に懇願したにも、かかわらず 父なる神は子なる神の気持ちを無視し。冷酷に接しました。これらを読むと、
なぜ?三人の神を一人の神と考えなければならないのか、ますます疑問を感じ、どうしてそうなってしまったのかを研究し始めました。結論から先に言うと。それはローマ帝国にあります。詳しく言うと長くなりますので、そのことは次回書きます。今回は一番最初に書いたブログが古いからと言う理由で、このブログから消されてしまったのですが、苦心して捜したところ、幸運にも奇跡的に見つかりました。なので今回はそのオリジナルバージョンを
書き送ります。



砕かれた十戒石板


 砕かれた最初の十戒石板とは、聖書の出エジプト記で神様が御自分の手で直接書きモーセに渡した十戒石板のことです。しかしモーセが山から下ると、イスラエルの民は偶像礼拝の罪に陥っていました。これを見たモーセは怒り、持っていた十戒石板を投げつけ砕いてしまいました。その後、再びモーセは山に登り、今度は神様の語る十戒の言葉をモーセが用意してきた石板に書きました。ですので最初の十戒石板と二回目の十戒石板は内容が違う可能性があります。なぜなら、その前の創世記には「我々」という言葉がよく出てきますが、この十戒石板事件からピタリとその言葉が出てきません。
 話は飛んで新約聖書の福音書でイエス様は再臨の時について「その日その時は誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ父だけが知っておられる。」と言いました。イエス様は父なる神様の思いをすべて知っているわけではないと明らかに言っています。このことは先ほどの「我々」という言葉と一致しています。
 それなのに、なぜ新聖歌で「聖なる聖なる聖なる」で ~三つにまして一人の神~ と歌うのでしょう?一人ならイエス様は父なる神様のどんなことも知っているはずです。
 ここは ~三人にまして一つの神~ と歌うのが正しいと思います。これは野球チームに似ていると思います。監督は父なる神様でピッチャーはイエス様そしてキャッチャーは聖霊さまです。まず監督がキャッチャーにサインを出します。そのサインを今度はキャッチャーがピッチャーに出します。この三人はチームの勝利という目的に向かって心は一つです。別に体が一つになる必要はないと思います。