負の遺産

 ある物が、その人にとってプラスになるのであれば、取って置く
価値があります。が、そうでない場合もあります。それがあるばっか
りに逆にマイナスに作用します。でもマイナス要素を取り除けば以前
の何倍もの爆発的なパワーが生まれます。ちょうど要らない重い荷物
をトランクに積んである自動車のようです。その荷物を取り除けば、
今までの数倍のパワーが出ます。それなのに、その何の役にも立たな
い物を大事に車に乗せたままにしています。それはみんな?と思いま
す。それに似たことがあります。それなのになぜ現代も何の役にも立って
いない「あの説」を、要らない重い荷物のように持ち続けているので
しょうか?
 考えたことは、牧師などは羊飼いに例えられています。羊が良い牧
草を食べ健康に過ごすことを助けることが一番の仕事だと思います。
しかし残念なことに現在の羊飼いは干乾びた栄養のない牧草を羊たち
に食べさせ、羊たちが飢えて死にそうでも、そんなことお構いなしに
近所の羊飼い仲間と仲良くすることの方が大事と思っているのでしょ
うか?それはイエス様が最も悲しむことでしょう。そんなことをして
いるより、もっと羊の健康状態を気にかけ、良い牧草を食べさせてい
るのか?牧草のように見えるが実は羊の健康を奪うような草を食べさ
せていないか。その草を見つけたら、その草を引っこ抜き取り除き、
羊がそれを食べないようにするのが大切な仕事だと思います。(羊は
何も考えないで目の前にある牧草を食べるように、クリスチャンたち
も教会の礼拝で、まさかそこに食べるのが健康の害になるものがある
とは思わず、何でも口に運びます。)
 これでは本末転倒です。もし近所の羊飼いと仲良くし仲間はずれに
ならないことが大切なら、これはもう羊飼いではないでしょう。他の
羊飼いのことなど目もくれず、羊のことだけを考えるのが良い羊飼い
です。実に、そのお手本がイエス様でした。ユダヤ教指導者は近所の
羊飼い(同じ仲間のユダヤ教指導者)と仲良くし、二回目の十戒石板
に従っていくことが何より大切でした。そのことを守るためにイエス
様を殺しました。仲間意識というのは行き過ぎると、思いがけない罠
になると思います。現在のキリスト教社会でも似たようなことが起き
ています。仲間意識が行き過ぎたがゆえに「あの説」を支持すること
が何より大切で、もっと大切なことがあるにもかかわらず、そのこと
をおろそかにしているのは良い羊飼いではないと思います。
 ローマカトリック教会の(私はカトリック教会の信者ではないので
確かなことは知りません、今は違うかも知れません。)礼拝では信者
に聖書を読ませないそうです。もしかしたらそれは「あの説」と聖書
との矛盾に気づかせないためかも知れません。


(このブログの初期の方に「あの説」(三位一体説)について詳しく書いてあります。
「あの説」はあくまで「説」に過ぎません。説というのは人間の創造の産物です。
進化論も天動説も当時の人間の仮説に過ぎませんでした。後世なってその説の
誤りに気がつきました。それなのに「あの説」がいまだに残っているのは、
なぜでしょうか?それは誰かが困ったことになるからでしょう。非常に残念です。
ガリレオのような勇気ある霊的指導者はいないのでしょうか?「あの説」は神の領域
のことで人間には理解できないこと、と言いますが、その理解できないことを
受け入れる人だけが正統派クリスチャンと言いますが、その人は理解していないのです。
ということは、それが理解できないクリスチャンは正統派クリスチャンでないことになります。でもそんなことは絶対ありません。神の一人子イエスさまを自分の罪の代理に死なれた
お方であったことを信じる人はすべて、正統派クリスチャンです。「あの説」など理解できなくていいのです。「あの説」など天動説のように消えてなくなればいいのに。)


                                    つづく