砕かれた最初の十戒石板。

 「砕かれた最初の十戒石板とは、聖書の出エジプト記で神様が御自分
の手で石板に十戒を刻まれた十戒石板のことです。モーセは神様から
この石板を貰いましたが、山から下るとイスラエルの民は偶像礼拝の
罪に陥っていました。モーセは怒って、この十戒石板を投げつけ砕い
てしまいました。
 その後、再びモーセは何も刻んでいない石板を持って山に登り、
神様の声に耳を傾け、この石板に十戒を今度は自分で刻みました。
 最初の十戒石板と二回目の十戒石板は内容が違う可能性があります。
なぜなら、そのすぐ前の創世記では「我々」という言葉が、たびたび
出ますが、この石板事件からピタリとこの言葉が消えました。


 話はずっと飛びますが、新約聖書の福音書でイエスさまが再臨の時
について「その日その時は誰も知らない。天使たちも子も知らない。
ただ父だけが知っておられる。」と言いました。イエスさまですら
父なる神様の心の中すべて知ってはいないということです。つまり
父なる神様とイエスさまは完全な同一人物ではない、一人ではない、
ということです。先ほどの「我々」という言葉は一致します。
 最初はこのことが公にされていましたが、例の事件以降このことは
謎にされましたが聖書をよく読むと、この謎がだんだん解けてきます。
 それなのに逆に聖書理解を妨げることがあります。それは新聖歌の
「聖なる聖なる聖なる」です。その歌詞に~三つにまして一人の神~
というところがあります。これは~三人にまして一つの神~が聖書的
です。これは野球チームに似ていると思います。監督は父なる神様で
ピッチャーはイエスさまでキャッチャーは聖霊さまです。まず監督が
キャッチャーにサインを出します。そのサインをキャッチャーが
ピッチャーに出します。この三人はチームの勝利に向かって心は一つ
です。別に体が一つになる必要はないと思います。」