暖かく無関心なホッとする人(P君)2835話

 午後2時10分、
リーダー 「まあまあ、みなさん恋愛話で盛り上がっているようですけど、
      他の話をしたい人はいますか?Bさん何かありますか?」
Bさん 「そうですね。最近よく思うことですけど、みなさんは「何となく
    こうなんじゃないか?一般的にはそういわれているけど、それは一部の
    人にとって都合がいいからそういわれているだけで、本当は違うんじゃないか?
    って思うことってありませんか?」
リーダー 「それはよくあるね。」
Bさん 「ですよね。クリスチャンになってから、以前はそう思っていたことを蓋の中に
     閉じ込めていたのが、その蓋が外され、それらの疑問が表に飛び出し、こんな
     物を以前は大事にしていたのか?と自分が情けなくなりました。例えば仏教の
     ことですがクリスチャンになる前は何となくよくわからないけど、とりあえず
     日本に住んでいる以上大多数の人が仏教だから「それでもいいか、」なんて
     軽い気持ちでしたから瓶の中に何が入っているかも考えないで宝物のように
     大事に持っていました。でもその瓶の蓋を取って中の物を見てみるとこの場合
     は仏教ですが、今まで大事に持っていた物は「すべて人間が考えた物で決して
     神様から与えられたものではなく、人間がこうだったらいいのにな。という
     とんでもないゴミだったのです。そんなものを今まで大事に持ち歩いていた
     自分が情けなくなりました。その時思いました。もしクリスチャンになってい
     なかったら、その蓋を取って中身を確かめようとは決して思わなかったでしょ
     う。どうしてかというと「その蓋は決して取ってはいけない。」という一種の
     命令に支配されていたからです。じゃあその命令をして支配していたのは誰か
     ?というと両親だと思います。「アブラハムは父の家を離れ」と書いてありま
     す。これは単なる物理的な問題ではなく、心理的な問題です。親離れとよく言
     われますが、実際には完全な親離れをした人は少ないと思います。大体の人は
     物理的に経済的に親から自立を目指して、それが実現すると「俺も親から自立
     して大人になったな。」と安堵しているかもしれませんが、心理的宗教的には
     子供のままで親の命令に支配されたままです。アブラハムの立派なところは
     その時、親と対立して「俺はこの土地カルデラのウルの偶像が神であるとは
     思っていない。両親は俺にもカルデラのウルの信仰を持つように勧めるが俺は
     そんなバカげたことはしない。あんな偶像が神であるわけがない。俺は俺を
     創造した真実の神を求めて旅に出る。」と言って親と決別した。対立ではない
     。対立だったらいつか和解して元に戻ってしまう危険性がある。彼は決して
     元には戻らない親との決別を選んだ。彼の迫力に押され父親と甥がアブラハム
     について行った。これが日本人がクリスチャンになるお手本です。話が飛びま
     したが、どうして親から心理的に宗教的に自立できないかというと、瓶の中
     にしか自分の生きる世界はないと誤解しているからです。私は仕事柄よく海外
     に行きますが、その土地の人間になったつもりでいます。そうすると日本人
     という枠から解放されます。だから若い時とくらべて考え方が国際的というか
     柔軟性ができ、瓶の中、仏教のことですが、そこから飛び出しても生きる世界
     はいくらでもある。という本当の自由を手に入れました。だからD君の勧める
     教会に行ってみようと思ったんです。
                                    つづく