「聖書理解の部屋に居たペテロ」

 ペテロは私達とは比べものにならないほど、聖書理解に優れていました。それには様々
な理由があったでしょうが、根底には創世記の「我々」が誰であるか知っていたからだと
思います。根底には「我々」と言う神様は三人で、その神様達は「我々に似せて人を造ろう。」「人は我々の一人のように~」と書いてあるように、神様達に似せてアダムは造られました。つまり神様達の姿は人間に似ている、そして三人で協力しているが、その心の内側をすべて知っているわけでは無い。(イエス様の再臨の時は天使たちも子なる神様も知らない。つまりイエス様も父なる神様が思っていることを全て知っているわけではない。)
 ユダヤ教徒は創世記の「我々」と言う意味がわからず「唯一の神が、なぜ我々などと言うのか?」と言っていますが、それは創世記より出エジプト記の方を重視しているからです。創世記を重視して出エジプト記を読めば、「我々」が誰であるか分かりますが、それはユダヤ教徒では無理です。ペテロは、そこから解放され創世記の方を重視しました。
 残念ながら、それに似たことがあります。それは創世記の「我々」という人(アダム)に似た三人の神様より、「あの説」の三つにまして一人の神の方を重視していると言うことです。