「サイレント マジョリティー」

 サイレント マジョリティーと言う曲がある。これは「物言わぬ 多数派」と言う意味で、元々は政治に関することで、政府に文句があるが選挙の投票に行って、今の政権与党
を変えようとは思わないで、文句だけの人。この人たちをサイレント マジョリティーと言う。これは政治の世界にとどまらず、教会でも「あの説」に文句がある人がいても聖書
と矛盾を感じても「サイレント マジョリティー」になっていないだろうか。
 そうすると何が起きるのだろうか。そうすると最悪の場合、求道者が教会に来たとしても教会では「あの説」に基づいて「~三つにまして一人の神~」と言う。しかし彼が家に帰って一人で聖書を読むと、神様が自分のことを我々と言ったり、イエス様と父なる神様の二人の神様が出てきたり、いったい神様は一人なのか、二人なのか、三人なのか、混乱し訳が分からなくなり、やがて教会から離れてしまうかもしれない。そうでなく教会でも家で一人で聖書を読んでも理解できることは大切だと思います。また長年、教会に通っている人で、聖書を日常的に読まない人を、はたしてクリスチャンと言えるだろうか?毎日聖書を読んで考えていれば、「あの説」に聖書との矛盾を感じるだろう。それはイエス様の十字架の救いとは関係ない、と言って無視する人もいるが、はたしてそうだろうか?
 ではイエス様のバプテスマの場面とかゲッセマネの園で祈る場面とそれに続くカルバリの十字架の場面を軽視して読まなくても(たとえ読んでも深くは読まない。)自分の救いとは、あまり関係ないなどと言えるだろうか。特にゲッセマネの園で祈りと、それに続くカルバリの十字架で、どんなにイエス様が この苦しみから逃れたかったか。でもそれは父なる神様の命令だった。それを我慢して「あなたの罪の身代わりに十字架刑を受けて下さった。」この時、明らかに二人の人の意見は対立していた。それでもこれで一人と言う人がいたら、この時をどう説明するのだろうか?この父なる神様に見捨てられたイエス様の苦しみを知らないで救われたと言えるだろうか?これは別の人だ。それなのに「~三つにまして一人の神~」と歌っていることに矛盾を感じないのだろうか?またイエスさまがユダヤ人に殺された理由は、ユダヤ人は神は一人というところにイエス様は私も子なる神だ、と複数の神を主張した。神様が一人か複数かは大問題。イエス様が誰なのか?みんなは軽く「神の一人子」と言うが、その一人子が父なる神様と同一人物と言うのは矛盾していないだろうか?少し考えれば、すぐ「これは おかしい。」と気づくと思います。