「温度差」

 前回書いた「聖書理解の部屋」の入口のドアに「あの説」という
ロックが掛かっていることを説明しました。
 ある人は「あの説」など気にしないで、ただ聖書を読み続ければ良
いではないかと言いますが、内容も理解できないで、ただ字面だけ追
ってみても長続きしません。クリスチャンは前に歩き続けるか(聖書
を読んで理解するか)、歩くのを止めるか(聖書を読んでも理解しよ
うとしない)かの二つに一つです。後者は遅かれ早かれ、信仰から離
れて行くでしょう。
 残りの前者ですが、これらのクリスチャンの事を聖職者の人々は、
いったいどう思っているのでしょうか?これらの人々は熱心に聖書を
理解しようとして、ロックを解除しようと悪戦苦闘し、そのドアを開
けて聖書理解の部屋に入ろうと努力しています。この姿勢は羊に例え
ると健康でムシャムシャ牧草を食べるようです。健康なクリスチャン
の姿です。それなのに、そのロックを解除しないで、聖書理解の部屋
にクリスチャンを入れさせないのはどうしてでしょう?
 そこには聖職者と一般信徒の温度差の違いがあると思う。聖職者は
それでいいかも知れませんが、一般信徒は生きるか死ぬか(この意味
は信仰的に生きるか死ぬか)です。もし聖書が理解できない書物であ
るなら、そのクリスチャンは信仰的に死んでいます。ここでよく考え
てもらいたいのは、もしここに聖職者にとって都合のいい信徒がいた
とします。彼は聖職者の言うことは絶対正しいと信じていますが、家
では聖書を読もうとしません。ですから聖書に何の矛盾も感じません。
一方の人は毎日、家で熱心に聖書を読んでいますから、礼拝で矛盾を
感じます。どちらのクリスチャンの方が健康なクリスチャンだと思い
ますか?
 聖職者のためにクリスチャンになったのではありません。
 それは自分の魂のためです。