「聖書理解の部屋」

 この部屋は救われた人が、家に入り廊下をしばらく進むと、ありま
すが、そのドアにはロックが掛かっていて、そのロックを解除しない
と、その聖書理解の部屋に入れません。この家に入っても、その廊下
はかなり長いです。その先に、この部屋があります。
 この意味は、救われクリスチャンになることは、この家の玄関ドア
から、救いの家に入ったようなことです。その廊下を進むのは、聖書
通読に似ています。そして聖書理解の部屋を見つけます。
 が、その部屋にはロックが掛かっていて、鍵がないとそのドアは開
きません。そのロックの名は「あの説」です。「あの説」を支持して
いる以上、そのロックは解除できません。せっかくここまで来たのに
、このロックのせいで聖書理解の部屋に入れないクリスチャンが多い
です。(せっかく長い間、聖書を通読し、礼拝にも出席して来たのに、
「あの説」のせいで聖書を理解できないクリスチャンが多いです。)
このロックを解除しようと私は聖書を探しまくりました。何か、この
ロックを解除する鍵はないかと。あるとき創世記を読んでいて、
「我々」という言葉がよく出てきました。この「我々」が鍵でした。
 それでこの「我々」って誰の事だろう。また「我々」というからに
は3人だろう。神様は何かを決定する前に必ず「我々」に相談してか
ら決めていたので、「我々」という方々は神様のように力ある方々
であると思いました。また新約のイエス様の洗礼の場面、ゲッセマネ
の園で祈る場面、十字架上の場面などから、神様は始めから3人いて、
この3人は野球のチームのようですが、それぞれの意志を持っている
ことがわかりました。
だから「あの説」の三つにまして一人の神というのは、聖書的でない
ことが分かり、「あの説」の ロックが解除され、聖書理解の部屋に
入れました。それにしても誰の得にもならないのに、どうしてその
ドアをロックしたままにして置くのか、さっぱりわかりません。
それが原因で聖書が理解できなくなり、せっかく救われたのに教会を
去っていく人がいるかも知れません。また、そんな人をそこまで育て
た聖職者も「あの説」が原因で教会から離れてしまったことを何とも
思わないのでしょうか?そんなに「あの説」が大事なのでしょうか?