「創世記の始めからいた「我々」という神」

 創世記を読めば理解できると思いますが、神様は何でも「我々」と
言う方々に相談してから、何かを決定していました。この「我々」が
誰かは、聖書を理解する上で大変重要です。ユダヤ人は神様は一人と
決めつけ、その事を前提にして聖書を理解しようとしているので、
ところどころに、その歪が出ていました。聖書には一度も神様は一人
と言うことは書いてありません。二回目の十戒石板で「あなたには、
わたしをおいてほかに神があってはならない」とは言いましたが、
そのわたしが一人とは一言も言いませんでした。ユダヤ人は、ここを
勝手に一人と思い込み、それが原因で自分は神の子だと言うイエス様
をこの世から消したいと思いました。
 それで「我々」という方々を知らないと、ユダヤ人と同じ失敗を繰
り返すことになります。どうして神様は一人という考えから、離れら
れないかというと、根拠がなくても繰り返し繰り返し言われていると
そのことが心に刷り込まれ、それしかないと思ってしまいます。例え
ば、檻の中に居る動物に決まった時間に餌を与えると、檻の出口が開
いていても、出て行こうと思わなくなります。刷り込まれ学習してし
まったからです。ユダヤ人も神様は一人と刷り込まれ学習して、改め
て再考察しようと思いません。それより創世記という重要な書物を閉
じて読もうとしません。これは何かと似ていると思いませんか?
これは「あの説」を守ろうとして、その説に合わせて聖書を曲解する
人々に似ていると思います。大事なのは真実より自分たちのプライド
でしょうか?
 イエス様は命懸けでユダヤ人に、その誤りを伝えました。