「距離感」

 思い込みということは、よくあることです。他に進む道はあるにも
かかわらず、それしかないと思ってしまいます。この状態は他人から
見れば、そんな事を考えるのをやめれいいのに、他にもっと良い物が
あると言っても聞き入れません。これはどうしてかと言うと、その事
が心に占めるウエイトが大きく、自分心では分かってはいるけど、
なかなか変えられない。そんな時はどうすればいいかと言うと、心に
大きなウエイトを占める事は、ひとまずこちらにおいといて、別の考
えを徐々に膨らませて行けばいいと思います。それをキープとよく言
います。それは悪い事でも何でもないと思います。むしろ、これしか
ないと思う方が異常です。客観的に見れば、二つの事を冷静に見比べ
られる。あまり熱くなりすぎると、この客観的に見比べるということ
ができなくなります。聖書の中にも、そんな人が出てきます。
 その人はヨハネの福音書の冒頭に出てくるニコデモです。
彼はユダヤ教の指導者でしたが、最近でてきたイエスという人の事が
気になり、夜、ユダヤ教の指導者仲間に見つからないように慎重に、
イエス様のところへ会いに来ました。この人は、なかなか賢い人だと
思います。最初に書いたような人ではなく、客観的に冷静に見比べら
られる人でした。多くのユダヤ教の指導者は、はなから、まだ何も分
からない内から、イエス様を遠ざけ、冷静に見比べることはできない
人でした。つまり距離感の持ち方が適当でありませんでした。
 でもニコデモは違いました。イエス様と会ってみようと思いました。
いわゆるキープです。このときはユダヤ教の指導者としてでした。言
ってみれば心の割合は ユダヤ教9:イエス様の興味1 でした。
これはユダヤ教を知り尽くしていたので、ユダヤ教に疑問を持ち、
?と思うことがユダヤ教にあったと思います。もしかしたら、それは
創世記の「我々」は、誰か知りたいことがきっかけだったかも、知れ
ません。