暖かく無関心なホッとする人(P君)5718話

11:8 D君(そもそも、このブログを書き始めたのは、2016年5月から、今からもう6年
も前のことだから、古いブログから削除されて行っても、全然おかしくない。当時の
僕は救われた嬉しさから、貪るように聖書を読んでいた。礼拝にも熱心に通った。そこで
多くの親しい青年会のメンバーと知り合った。何か月目だったか、礼拝に歌う讃美歌(聖歌
)の中で「聖なる 聖なる」の歌詞で「三つにまして 一人の神」というところが、自分の中で矛盾を感じていました。それは創世記をよく読むと、「我々」という三人の神が、この
世界や人間を創造することを、話し合って決めたのに、それを乱暴、創世記を無視して、「簡単に聖書には三つの神様が現れるけれど、大本は主という一人の神なんだ。」というが
、もし本当に一人だったら、この世界や人間アダムを創造するのに、ためらわず誰にも相談
しないで(というか三位一体説を信奉する人は、一人の神だから、何の問題もなく創造した
と言うけれど、聖書の創世記には「我々」という複数の神がいることがはっきり書いてある
。ここを聖職者はどう説明するのか?)、、、、それと最近になって気がついたことがある
。それは出エジプト記19章で、モーセがシナイ山で、主から初めて十戒石板を受け取ったが
、その十戒のはじめに「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」
(出エジプト記20-3)以前はここを読んでも不思議に感じなかったのだが、ここに妙な事が
書かれている。それは「~ほかの神々~」というところ。主なる神様は偶像礼拝を毛嫌いし、十戒の最初の4つは、私だけを礼拝しなさい。ということにつきる。だから当然ほかの
神は認めない。(それでパウロは自分も神の子だと主張するイエス様を殺害した。)話を
戻すと、十戒で「あなたには、わたしのほかに、ほかの神があってはならない。」とは、
書いていない。それなら意味がよくわかる。だがここには「~ほかの神々があってはならない。」と書いてある。「神々?」主なる神様は自分という「神々」の存在だけは認めている
。ということは主なる神様は神様の集合体なのか?そうなら創世記の「我々という神々」
と説明がつく。やはり聖書をよく読めば創世記と出エジプト記は矛盾点が無い。


                                    つづく