「リアルさを求めるサイレントマジョリティー」

 3370この数字がなんだか分かりますか?この数字は2016年の5月
から始めたこのブログの通算アクセス数です。だいたい一日100人
ぐらいの方がこのブログを読んで下さっています。感謝です。自分が
思っていたとおり、サイレントマジョリティーなクリスチャンが多い
ことがわかりました。言いたくても言えない事って結構あると思いま
す。特にそれが教会内なら余計そうです。できるだけ教会内に波風を
起こしたくないと思います。それでサイレントマジョリティーに自然
になってしまいます。
 でも聖書を読むたびに、これでいいのだろうか?と自問自答してい
ました。自分だけ「あの説」の成り立ちを知って、自分だけ聖書の謎
を解明し、そうだったのか、と納得して終わりではガリレオと全然違
うので、このことを誰かに伝えたいと思いました。
 最近思ったことは、なぜ「あの説」を正当教義として支持する教会
には正当な教会とするのでしょうか?です。「あの説」を知れば知る
ほど、その内容はひどいの一言です。クリスチャンでもない人が今日
から、この説だけ正当なキリスト教です。これに異議を唱える人は全
て異端です。まさにこれは恐怖政治です。ローマ帝国の政府に逆らう
わけにいかず、しぶしぶそれに従って今日まで来ました。でもちょっ
とおかしいと思いませんか?ローマ帝国はとっくの昔に滅亡したはず
なのに、「あの説」だけ未だに生き続けているとは。ガリレオは天動
説の誤りと地動説を発表し、今ではそれが常識になっているのになぜ
「あの説」は残っているのか? その当時のキリスト教会らは幼稚で
「あの説」と聖書の矛盾点に気づかずに、それを正当教義としてしま
ったのと、それまでクリスチャンになるのは大変で、場合によっては
血を見ることになり、もうそんなのは見たくないと思ったのでしょう。
 それでつい判を押してしまったのでしょう。でもよく考えてみれば
「あの説」を正当教義とすれば聖書を理解できなくなります。個人で
家で一人で聖書を読みたい時もあります。しかし「あの説」を取り入
れて聖書を読むと聖書はフィクション(作り話)の物語になり、少し
もリアリティーが感じられず、読みたいと思わなくなりました。これ
は大変なことです。信仰の危機です。羊が牧草を食べたくないとすれ
ば、まもなく死ぬでしょう。そんなことはどんな羊飼いも望んでいな
いと思います。 
 私は「あの説」の正体を知って、「あの説」抜きのリアルな3人の
神「我々」を中心に聖書を読み始めました。すると聖書の世界の中に
自分も出演しているようでした。その現場にいるようでした。まるで
以前はビルのエアコンのきいたオフィスの中で建設工事の進み具合を
人づてに聞いていたみたいでしたが、今度は実際に工事現場へ出向き
ヘルメットをかぶって、そこの作業員と汗を流しながら、工事がどこ
まで進んだかを会話するようです。これはリアルです。 
 もし「あの説」を取り入れて聖書を読むことが正当なクリスチャン
だとしたら、その人はあまり聖書を読まなくなります。それは神様の
御心ではないでしょう。でも残念ながらそうです。どうしてそんなこ
とになってしまったのでしょうか?それは現代の教会は外向きの教会
が多いからだと思います。あの教会は変だ。うちの教会の方が素晴ら
しい。と、よその教会のことが気になり、ちゃんとした協定(同盟)
をつくって仲良くしよう。このことを守っているなら正当で仲間です
と選ばれたのが「あの説」です。しかし「あの説」を知れば知るほど
もっとまともな正当な仲間のしるしは無かったのかと思います。