暖かく無関心なホッとする人(P君)5617話

18:40 D君(旧約聖書の箴言の、どこに書いてあったか思い出せないが「知恵ある者は
知識を隠す。」という聖句がある。最近その聖句がよく頭に浮かぶ。よくその意味を考えてみると、キリスト教というものは、「ある知識(この場合はある人の犯した失敗、よくない事、罪など。)を隠す。ことが重要。」だと思った。つまり醜いものを父なる神様は、清い
方なので見たくない。なので誰かがその醜いものを隠して、父なる神様の目に触れないようにする。それが福音だと思う。、、、、つい誰かが何かを失敗したり、よくない事(不正、
罪)を犯したことを知ってしまうと、そのことを誰かに喋りたくなってしまう。もちろん
その不正なりを計画して犯したなら、それは計画的な悪事なので、速やかに裁かれなければならない。が、ここで問題にしていることは、その失敗を犯した本人がやむにやまれず、
強いストレスを浴び、そこから逃れたくて仕方なく犯してしまった場合のことを言っている
。、、、話を戻すと、イエス様はまさに人類が犯してしまった、その後者の罪を父なる神様
の目に触れないようにするため、御自分を犠牲にして、人類の犯した罪の代価(血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。へブル9-22) を代理に支払ってくださったのです。、、、、ここで贖罪という意味をよく考えてみた。「贖い」という意味はもともと奴隷
などをある人が代金を支払って買い取る、その奴隷は買い取ってもらった主人のもとで自由
になることを意味する。だから贖罪というのは、罪の代金を支払ってくださった主人
(イエス様)のもとで自由になること。「贖罪」atonementという語は、単に被うこと(
covering)を意味しています。、、、、なぜこのことを最近よく考えるかというと、自分の周りの人たちの意図的にしたのではないにしろ、あまりに酷いことをしているのを目にして、
つい誰かにそのことを言いたくなってしまう自分がいる。、、、、でもよく考えてみた。
それではマタイによる福音書18-23~35に出て来る、憐まなかったしもべ、と同じだと気づいた。(この章をよく読むようお勧めします。)、、、なのでイエス様が自分の罪を父なる
神様が見ないよう、覆い隠してくださったように、自分もその人たちの過ちを、他人にばらすのではなく、知っていても自分の心の中だけで、踏みとどめることは大事だと思う。


                                      つづく