暖かく無関心なホッとする人(P君)2690話

 1/26(土)午後4時45分、そのころD君は前から気になっていた創世記の最期の方と
出エジプト記の初めの方がどうしても気になり、聖書のその部分を読んでいた。なぜ
気になっていたかというと、創世記では神様は「我々」と言って、アダムを創造するとき
には「我々」(われわれというからには3人だと思う。2人なら私たち、1人なら私。)
だから3人の神(父なる神様、子なる神様、聖霊なる神様。)が話合い、「我々に似せて人(アダム)を作ろう。」とアダムの姿かたちを決定した。それだからアダムを見れば
神様の姿がわかる。これは創世記に書かれている事実。なのにどうしてユダヤ人は創世記
より出エジプト記の特に二回目の十戒石板の方を重んじ、それは最初の十戒石板に書かれていた文章と全く同じという保証もないのにそれを絶対とするのだろう。そのため自分を神のひとり独り子としたイエス様は殺されてしまった。もしユダヤ人が創世記の「我々」という神様が誰だったか考えていれば、二回目の十戒石板の「わたしの他に神はあってはならない。」という文章と矛盾することに気が付かないだろうか?でも最初の十戒石板に「我々」の神様の説明があれば矛盾はなかっただろう。そんなことをD君は考えていた。


                                    つづく