「カーテンの閉じた窓」

 朝になったようだ。アラームが鳴っている。しかし部屋は真っ暗だ。薄暗い中で時計を
見ると、6時を過ぎている。それもそうだ、12月22日が冬至だ。12月の朝が一年
で一番、暗い。だから少しカーテンを開けておいた方が、朝になったことがわかる。
 聖書理解でも、いくら朝になっていても(聖書に書いてあっても)、カーテンが閉じていたら朝になったことがわからない。(聖書を熟読しなかったら意味が解らない。)
 聖書通読をしているクリスチャンは多いかもしれないが、ちょっと数学のことを考えて見て欲しい。途中で、よく分からない事があったとして、それを理解できないまま、その先のページを読んでも、解る訳がない。しかし聖書通読では、そうしているクリスチャン
が多いと思います。聖書通読では創世記から読む人が多いと思います。算数に例えれば、
創世記は1+1=2です。これを理解できないと、その先の聖書のページは解りません。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」そして造られたのがアダムです。
だからアダムは我々に似ています。アダムを見れば我々と言う神様の姿が解ります。
アダムは三つにまして一人というように、三人の人だけど一人と言う訳の分からない人
だったでしょうか?そうではありません。アダムは私たちと同じ、平凡な人でした。
 結局「我々」と言う神様達は、私達のような一人の人の集まりでした。一人の人が三人集う会の様でした。集合体ではない。集合体では異なった意見はない。イエス様の十字架前のゲッセマネの園の祈りを読めば分かる、父なる神様と子なる神様(イエス様)の意見
は異なっていた。