「ロックが解かれたドア」

 このドアは聖書理解の部屋のドアです。「あの説」によってロックされましたが、
「我々」と言う鍵によってロックが解かれた。が不思議なことに、みんながみんな
聖書理解の部屋に入るわけではありません。なぜなら、その部屋に入ろうとしない人から
、異端者と言われるからです。でも、ちょっと待ってください。創世記の「我々」の意味
を、よく考える人は異端者ですか? そんなバカげたことはないと思います。では、聖書
を熟読することは異端になる一歩ですか? ほんとうかどうか知りませんが、カトリック
教会の礼拝では、信者には聖書を読ませないそうです。それは、もしかしたら信者が聖書の創世記の「我々」と、「あの説」の神様の矛盾に気づいたら、困るからかも知れません。ローマカトリック教会はAC313年に正当教義になった「あの説」を今も大事にしています。彼らは創世記を読まないのでしょうか?「我々」と言う神様達は人間(アダム)によく似ているということがわからないのでしょうか?アダムは 三つにまして一人 
のような三人の心を持った一人の人だったでしょうか? そうではありません。アダムは一つの心しかありません。「我々」は一つの心しかない、三人の人のような神様の集合
です。