「「神様は一人」に執着した人」

 この人はパウロです。彼は新約聖書で多くの手紙を書いた人でした。
彼はユダヤ教の家庭で生まれ、高学歴で、律法については非の打ちど
ころが無かったと自分で言うほどプライドが高い人でした。彼は律法
学者中の律法学者、ミスター律法学者というほどの人でした。多分
モーセの書いた律法をすべて暗記していたでしょう。法学部を主席で
卒業するような人でした。ですから体の芯まで二回目の十戒石板に書
かれた「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」
が染み込んでいたと思います。だからイエス様の「私は神の子である。
」と言う発言を許せなく、イエス様をどうやって自分達以外の手で殺害
するかという計画を立てました。
 しかし、ちょっとおかしいと思います。それは彼らも、よく知っている
出エジプト記で、山から降りて来てユダヤ人の偶像礼拝の罪を目撃し、
怒ったモーセは最初の十戒石板を投げつけ砕いてしまいました、民は
偶像礼拝をしているは、せっかく書いた十戒石板を砕いてしまうは、
踏んだり蹴ったりで父なる神様は大変怒ってしまいました。
 しかし、二枚目の十戒石板を再び貰うわけですが、最初の十戒石板と
全く同じ物とは父なる神様は言いませんでした。それを勝手に最初のと
二回目の十戒石板は同じ物と考えるのは、虫が良すぎると思います。
 でも彼らパウロはじめ律法学者は、最初のと二回目の十戒石板は同じ
物と思っていたようです。それで神様は単純に一人と考えていたようです。
もしここで、父なる神様の立場になって考える人がいたなら、彼は言った
でしょう。「父なる神様は、この事件で大変怒っている。君たちも誰かの
をためを思ってプレゼントを用意して、誰かに代理に渡してくれるように
代理人に頼んだら、自分の知らない人とイチャイチャしていて、もう駄目だ。
と思った代理人はプレゼントを渡してもムダと思い、投げつけてしまいました。
 この一部始終を聞いた父なる神様は、当然、起こり、恨むでしょう。
「二回目のプレゼントを用意しても、ムダなだけだ。結果は変わらない。
それなら、少し困らせ、今のままの付き合いでいいのか、よく考えるよう、
少し内容を変えよう」、と言うことにならないだろうか。」
 パウロは確かに記憶力の点ではトップクラスでしたが、人の気持ち
を察するということには疎かったみたいです。だから何があっても、
十戒は変わらない。最初の十戒石板と二回目の十戒石板は同じ物と
思っていたのでしょう。それでどこまで行っても、「神様は一人」と
思っていたのでしょう。(このブログ「砕かれた最初の十戒石板」も
是非ご覧下さい。)