暖かく無関心なホッとする人(P君)5743話

19:35 D君(今日また、5737話を読み直して、一つ気がついたことがある。それは真実が
公になると、困ったことになる人たちが出てくる、という問題。あの説(三位一体説)は、
創世記をよく読めば、人間アダムが「我々」という神々の三者(父なる神様、子なる神様、
聖霊なる神様)の話し合いの結果、アダムは「我々」の姿によく似た者にしようということになった。ここをよく考えてもらいたい、もしそのうちの一人でも首を傾げたら、アダムの
姿は今の人間とは違っていた。また、もし父なる神様が一人の神様で、特別な権利を持っているなら、ほかに「我々」という神々がいたとしても、「わたしはアダムをこのように創ることに決めたから、口を挟まないように。」と言っただろう。でも創世記には、そう書いてなく、ほかの二人の神の意見も聞いている。、、、、なぜここを思い出したかと言うと、救われる前のパウロはこの創世記の箇所を「自分の信条にそぐわない。」というだけの理由で、
うやむやにして「考えようとしない。」これは自ら鍵をして扉が内側からも、外側からも
開けないようにしている。これが脳の思考停止状態。現代の多くのクリスチャン(特に指導的立場にいる人)は創世記に登場する「我々」という各自意志を持った神々の存在を、うやむやにして、「その存在を深く考えようとしない。」、、、、、、、、パウロは使徒の働き
9章で、ダマスコに行く途中、突然、視力を失い、、、、イエス様によって癒され、視力が
与えられるという奇跡を体験し、「イエスも神の一人なんだ。今まで出エジプト記20-3の
モーセの十戒の最初は、神様は父なる神様ただ一人だと思っていたが、イエス様も神様なんだ、」とわかってクリスチャンになりました。これは先に話した鍵をした部屋を神様が、
そのドアを破壊して強引に開いたようです。このパウロに起こったことと、創世記の我々を
うやむやにするクリスチャンは似ていると思います。どんな不都合があるか知りませんが、創世記のはじめの方をよく読んでください。使徒パウロは選ばれた人だったので、神様が強引にそのドアを破壊されたのだと思います。
                                     つづく