暖かく無関心なホッとする人(P君)4262話

12/27(日)6:15 D君は朝食までまだ時間があるのでパソコンに向かった。(今年も残す
ところあとわずかになった。「終わり良ければ総て良し」ということわざがある通り、
今年も途中は「なんでこんなひどい目にあわないといけないんだ、俺が何か悪い事でもしたか?してないだろ、それなのになぜ?」と思うようなことがあった。でも「禍を転じて福と為す」というように、そのとき怒りたいところを我慢して、「復讐は私のすることである。
神の怒りに任せなさい。」の御言葉の通りにした。すると誰にでも良心があるが、それが
「良心の呵責」によって、その人を責め、その人はそれに耐えられなくなり、降参し、
こちらに謝るということになる。それはともかく今年の最後はHAPPY END で終わりそうだ
。それと最近思ったことだけど、それは「信仰」という言葉の意味を本当によく理解しているんだろうか?ということだ。使徒の働きのペテロ牢獄事件で「信仰」を持っていたと思われ、彼が助け出されることを祈っていた信者たちは、いざ本当に彼が奇跡的に助け出されると、それを信じられなかった。彼らは信仰がありそうで、実は本当の信仰がなかった。
それで「信仰」の意味を聖書から理解しようとした。新改訳聖書へブル11-1には「信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」保証?確信させるもの?難しい。よくわからない。でも新共同訳聖書には「信仰とは、望んでいる事柄を確信
し、見えない事実を確認することです。」と書いてある。望んでいる事柄と言うのはわかる
。問題は見えない事実を確認するというところだけど、見えない事実というのは肉眼では見えないが、事実は事実なんだ。その肉眼ではない霊の視力みたいなものが(望んでいる事の
イメージを思い浮かべることが)信仰なんだと思う。
                                   つづく