「思っても見ないところ。」

 何か探し物をしていて、なかなか見つからなくて困ったことはない
だろうか。おかしい、何でないんだろうか?と、また同じところを
探す、焦りはピークになる。そんな体験は何度もありました。
 そんな時は意外なところにあります。自分が今まで探してこなかっ
たところに必ずあります。(ペットでもないかぎり足がないので、動
くわけがない)それで何でこんなところにあるんだろう?と思う。
 信仰の世界でも同じようなことがありました。長い間、教会の礼拝
に出席していました。(プロテスタントの福音派)
 そこの新聖歌「聖なる聖なる聖なる」の~三つにまして一人の神~
の歌詞が妙に気になっていました。よくわかりませんがしっくりきま
せんでした。
 聖書を読むたびに、父なる神様と子なる神様(イエス様)と聖霊様
は三人なのに一人と考えなければいけないのだろうか?では創世記の
「我々」は複数なのにこれも一人なのか?イエスさまがバプテスマの
ヨハネからバプテスマを受ける場面では父なる神様と子なる神様
(イエス様)と聖霊様が同時に三人現れているが、これはどう説明す
るのか?これでも一人と言い続けるのだろうか?また、イエス様が
十字架に張り付けられる前のゲッセマネの園で祈る場面ではイエス様
と父なる神様の意見が違うのに、これでも一人と言うのだろうか?
 そのほかの聖書の場面でも同じようなことがあるので「あの説」は
なぜ何時からキリスト教に取り入れられたのか調べたくなりました。
聖書を何度読んでも「あの説」に関することは書いてありませんでし
た。(まるで探し物が無くて何度も同じ所を探すようです。)
 すると「あの説」はAC313年にローマ帝国のアタナシウスがローマ
帝国をキリスト教国にしたくてエジプト国民に、すり寄って作った説
であることがわかりました。その説が今では大きな顔をしていること
は聖書的でないと思いました。(それで今まで探したことのない所を
探しました。)
 それからAC313年以前の初期の純粋なクリスチャンのことを考えま
した。12弟子を初めユダヤのクリスチャンはイエス様が現れるまで
、元々ユダヤ教徒でした。そこにイエス様が現れ「私は子なる神だ。
」と宣言しました。12弟子を初め一部の人はイエス様も神様だと思
いましたが、他のユダヤ人は二回目の十戒石板に従って神様は一人だ
と思い、それが原因でイエス様を殺しました。ここで、よく考えてほ
しいのは12弟子と一部のクリスチャンは、父なる神様と子なる神様
(イエス様)の二人の神様をすでに受け入れていたとことです。使徒
の働き以降では聖霊様も受け入れ、合計三人の神様を受け入れます。
つまり初期のクリスチャンは三人の神様を受け入れていたのです。別
の人格を持った三人の神様を認めていたのです。聖書を書いたすべて
の人がそう思っていました。そのことが前提にあったので、イエス様
がバプテスマを受ける場面やゲッセマネの園で祈る場面を聖書に書く
とき、別に変だとは思いませんでした。