見つかった本来のパーツ。

 ジグソーパズルで次が続かない、おかしいと思ったら無理にパーツを入れているかも知れない。その場合まず、その怪しいパーツを外して別のパーツに入れ替える。それで周囲のパーツが当てはまるようなら、それが本来のパーツです。
 自分の場合、聖書を何回も読んでも分からない。どうしてだろうか?それでたどり着いたのが、創世記の「我々」という言葉です。この「我々」って何だろう。それがカギになりました。神様は初めから「我々」(複数)だった。という結論に達しました。
 教会で歌う新聖歌の「~三つにまして一人の神~」という歌詞は、「あの説」が元になって作られていることが分かりました。どれだけ「あの説」がクリスチャンの心を混乱させているか分かりました。いろいろ調べているうちに「あの説」に、何の聖書的根拠もなく、ただ人が後から作った説に過ぎないと分かりました。
 なぜ自分が例の説を「あの説」と書くかと言うと、「あの説」は自分から離れた場所にあり、ある程度の距離を置いて客観的に、その説を見れるからです。ちょうどガリレオが宇宙から地球を見れたように、聖書から距離を置いて「あの説」を見れる。二つの考えを冷静に見比べることは、人間にある当然の権利だと思います。ちょうどジグゾーパズルをしていて、第三者が「ここにこれを入れて。」と言って無理やり入れるのは、おかしい事です。そのパズルは一人ですることで、どんなパーツを入れても構わないと思います。
 正当なジャッジをするのは聖書です。