暖かく無関心なホッとする人(ベタニアへようこそ)5800話
サブタイトルを変えただけなのに何だろう? なにか新鮮な新しいことが始まりそうな
ワクワク感がある。 前からベタニアという名前は好きだった。 イエス様もエルサレムの
神殿で奇跡を行なったり、神の国のことを宣べ伝えたり、病人を癒したりした後、この
マルタ、マリア、ラザロの住むベタニアの家に帰り、夕食を共にし、くつろいで休み、
明日のために祈ったりしていただろう。 つまりイエス様にとっては、このベタニアの家は
なくてはならない場所、嵐のような迫害から逃れられる隠れ家的存在。
私もこのブログ「暖かく無関心なホッとする人(ベタニアへようこそ)が、クリスチャン
にとって、日ごろのストレス社会から逃れ、このブログに来れば心が癒され、まだ会った
ことのないクリスチャンと交われる仮想の教会になればいいなと思っています。 今は皆
忙しく、日曜日でも礼拝が終わったら、すぐ家に帰るクリスチャンが多いと思いますが、
使徒の働きの最初の方に、教会ができ始めた様子が書かれていますが、彼らは喜びに満たされ、一日中その教会にいました。 彼らは、一日中、その教会のクリスチャンと共にいたかったと思います。 そもそも、教会って何ですか? 、、、、建物じゃありません。 「教会」
という漢字をよく見てください。 教える、会です。 つまり会だから、一方通行ではないわけですよね。 互いに教え合える開かれた会ですよね。 ところが現状はどうでしょうか?
ただの信徒は、その教会の牧師に、無言のプレッシャーを感じ、先生と呼ばなくてはいけない。 質問してはいけない、という圧を感じ、親睦会とは程遠い雰囲気を感じてはいないだろうか? でもこれは使徒の働きに出て来る初期の教会の姿とは、雲泥の差です。 そこでは
単純にペテロはペテロだけ。 決して誰もペテロ先生なんて言いませんでした。 ペテロも
誰かが「ペテロ先生」なんて呼べば、すごく嫌がってすぐ撤回を求めたでしょう。 その点 僕はアーサーホーランドがすきです。 彼は単純に御言葉を実行しています。 彼ほど今日本で有名なキリスト教の福音伝道者はいないと思います。
話がまたまた脱線しましたが、私が思うところは、日本のクリスチャンはもっと牧師も
信徒も分け隔てなく、対等な存在になり、御言葉のわからないところを一緒になって考える共同体になればということです。
イエス様はある時、言いました。 「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。
あなたがたの教師はただ一人しかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。 (マタイ23-8
追伸 今日から、このブログに訪れた昨日の訪問者の総数を( )の中に書いていきます。
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つづく
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