「本末転倒」

 まだ救われていない家族や親友のため祈り続け、初めて伝道集会
に来てくれた日の感激は他には無いでしょう。その人がクリスチャン
になる決心をした時は、その感激は最大になります。そして洗礼を
受け、めでたく救われクリスチャンになりました。これは救いの家
の玄関のドアを通っただけです。一様、救われています。このあと、
長い廊下があります。(聖書通読しないと聖書の意味が分かりません。)
廊下の突き当りに聖書理解の部屋があります。使徒の働き2章からAC313年
まではロックが掛かっていませんでしたがAC313年にアタナシウスが
ドアにロックを掛けてしまいました。それが現在まで続いています。
だから聖書理解の部屋に入るには、そのドアのロックを解除しなければ
中に入れません。救いの家に入って、すぐ聖書理解の部屋がある訳
ではありません。それはそうです。聖書を一通り読んで頭の中に入れ
ないと聖書を理解できません。
 ところがここで問題が起きました。聖書理解の部屋まで来たのに(
聖書通読して一応、聖書のあらすじが分かった。)その部屋のドアが
ロックされているのです。聖書のあらすじは分かっているのに礼拝で
よく聞く 三つにまして一人の神という「あの説」の神様がよく分か
りません。この 三つにまして一人の神という神様を信じる人が正当
なクリスチャンだそうです。でもその考えでは聖書を理解できません。
 それで困ったその人は廊下をウロウロして、どこかに聖書理解の部屋
に入るドアの鍵がないかと聖書をくまなく探しました。すると気にな
る言葉がありました。それは創世記の「我々」という言葉です。期待
と不安を持ってこの鍵を、ロックされたドアに差し込み回しました。
「ガチャ」なんとついに、ドアが開きました。この「我々」という鍵
は凄い。この「我々」って誰の事だろう。「我々」と言うからには
三人のことだろう。この三人は父なる神様と子なる神様(イエス様)
と聖霊様の事だと思い。この三人の神様を心にインプットして聖書を
読むと次々と聖書の場面がハッキリと浮かんできました。
 聖書理解の部屋の中に入ると、まるで自分が聖書の世界の中にいる
ようです。弟子たちに混じっているようです。今にも主から呼ばれそ
うです。聖書理解の部屋に入る前は、神様は 三つにまして一人の神
と言う、ぼんやりとして、よくわからない、ベールに包まれている方
でハッキリしたイメージが浮かびませんでした。でも聖書理解の部屋
に入ると、聖書がリアリティーを持って迫ってくるようです。
以前、廊下にいたころには想像できなかったリアルさがあります。
 そこで思いました。誰でも、この救いの家に入り聖書を読んでいけ
ば自然と聖書を理解できるだろうと思っていると。それで真面目に
聖書を読んでいきます。ところが問題のドアがあります。どうして
クリスチャンを悩ませ聖書理解をさせない「あの説」を放置するのか?