「当たり前のことは疑問をいだいてはいけない。」

 当たり前のことは疑問をいだいてはいけない。
「そんなこと当然だろ。」の一言で片づけてられてしまいます。      
それ以上のことは追及できません。はたして本当にそうだろうか?
当たり前のことが真実なら、どんな試練にも耐えられる。
人が当たり前と思って疑問を抱くことを敬遠していたことを、
真実なら、どんな試練にも耐えられると思う人もいます。
ガリレオもその人でした。ほとんどの人は天動説を支持していました。
それがローマ帝国の法律だったせいもありましたので、
それに疑問をいだいて自分が悪者扱いされたくないのと、
太陽がどう動いていようと自分とは関係ないと思っていた
人がほとんどでしょう。「そんなことどうでもいい。」と


 その当たり前のことが正しいという前提になっています。でも
もし、その当たり前のことが間違っていたら大変なことになります。
その当たり前のことが正しいか正しくないか?調べる方法があります。
 それはここに一つのダイヤモンドみたいな硬い石があるとします。
これに重い荷重をプレス機みたいなもので、荷重をかけます。
それに耐えるようなら本物のダイヤモンドで、ダイヤモンドみたいに
見える偽物だったら粉々になります。この重い荷重は聖書です。
「あの説」を聖書に照らし合わせて、なにも疑問がなければ本物です。
が、疑問が生じるようなら徹底的に調べます。それを調べることは
わるいことでも何でもない。むしろ、そのテストをすることを嫌がる
方がどうかしている。
 このテストは「あの説」にイエス様がゲッセマネの園で祈る場面と
いう重い荷重をかける実験です。(ゲッセマネの園で祈る場面を荷重
に選んだのは、聖書の御言葉はどんなことがあっても変わらない。
決してダイヤモンドみたいな石にまけて粉々にはならないからです。)
すると「あの説」はゲッセマネの園で祈る場面であとかたもなく、
消え去りました。ゲッセマネの園で祈る場面と「あの説」は正反対で
両方がぶつかりあえばゲッセマネの園で祈る場面が勝ちます。それは
聖書の御言葉ですから、どんなことがあっても変わりません。