失われた聖書パズルのパーツ

「みなさんはジグゾーパズルをしたことがあるでしょうか?
どんなにがんばっても、うまくいかないことがあります。
もし一つのパーツが他人の手によって隠されてしまったら
どんなに格闘しても、そのパズルは完成しません。
これは聖書というパズルでも同じです。
たった一つのパーツでも無いと、その周囲は分からなくなってしまいます。
 その大切なパーツは何なのでしょう。
それは創世記の「我々」という言葉です。
その大切なパーツに似たようなパーツを第三者が
「これをここに」と進め、何もわからないでハメ込みます。
その時はホッとしますが問題はそのあとです。
そのパーツにほかのパーツは当てはまりません。
それでそのパズルを組むことを諦めてしまいます。
これは聖書でも言えることです。
 「我々」という言葉の意味がよくわからないと創世記を
はじめとして聖書全体がよくわからなくなってしまいます。
この「我々」とは前回説明した、父なる神様と子なる神様と
聖霊様の三者です。これは野球チームに似ています。
この三人は全く別の存在ですが、心は一つです。
 つまり創世記の初めから、この三者は存在し、世の終わりまで
永遠に存在しています。「我々」は永遠に存在しています。
聖書の文章に現れないだけですが、この三者は聖書の中に
いつも存在し、野球チームのように連携を取り合っています。
どうしたら敵チームに勝てるかということをいつも考えています。
 ところが本来そこに収まるはずのパーツが隠され、別のパーツ
が収まるとはどういうことでしょうか?
これは聖書は聖書の御言葉から理解するものですが、
代わりに聖書の御言葉から離れ、
人間の勝手な解釈によって無理やり押し込めるようです。」