「リアルな「我々」という三人の神との出会い」

 その人と電話で話してみるのと実際に会ってみるのでは、そのとき受ける雰囲気は全然ちがう。「あの説」の神と聖書の神も、そのリアルさが全然ちがう。「あの説」によると神様は、ある時は父なる神様、またある時は子なる神様(イエス様)、またある時は聖霊様に変わるという。これではまるである一人の人がその時に応じて変身しているようです 
。そんな人は現実にはいないので、空想の人のイメージで、自分から遠く感じ、あくまで
自分が都合よく勝手に作った人で、相手からは何もアクションしてくれない人と思ってしまう。(もしその人が一人だったら、イエスさまがヨハネからバプテスマを受ける場面は三人同時に出現しているが、これはどう説明するのか?)
 そうでなく聖書によると初めから父なる神様、子なる神様(イエス様)聖霊様の三人がおられ、父なる神様が子なる神様に全権を渡し、この三人が話し合いの結果この世界と
人間を創られた。
 三人が話し合いの結果、何かを始めるというのは会社などで、よくあることなので実感がわく。
 この三人の神様が自分のために力をあわせて何かしてくれる。向こうから心配して働きかけてくれそうに思える。
 この考えにブレーキが掛かる理由は二回目の十戒石板が関係してくると思う。それは
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」という言葉に縛られ、
そこから動けなくなっている。これは初期のユダヤ人と同じ状態に陥っている。いつまで
その言葉に縛られているのだろう。この神という意味を勝手に一人と決めつけるところから間違えが起こる。その前の章では、この神は「我々」と三人と説明している。
 イエス様は、そのことが原因で殺された。