「矛盾だらけのパーツ」

 ジグゾーパズルで先に続かないようだったら、どこかで間違えたパーツを使っている。
聖書理解も途中で、何か変だ。と思ったら、どこかで無理な解釈をしている。「あの説」
で一度、徹底的に聖書を解釈してみて、どんなに無理があるか調べて見ます。
 まず、創世記の最初の「はじめに、神が天と地を創造した。」ですが、この神様は前回
説明しましたが、コロサイ書、へブル書によると、子なる神様が創造しました。しかし
残念ながら使徒信条では、父なる神が創造されたと言っています。この世界をどの神様が創造されたかは、とても重要です。ここを曖昧にすると、それから先の創世記を理解できなくなります。これはジグゾーパズルの真ん中に置くのが正解の「我々」というパーツ
を置くか、間違えたパーツを置くかと言う事です。
 次に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」ですが、「あの説」によると
三つにまして一人の神ですから、一人の神様(父なる神様)が人を造った事になります。一人なのに我々に~、と言っています。いったい誰に向かって言っているのでしょうか?我々って誰のことですか?その人達を無視していいんですか?ユダヤ教徒はその人達を無視しました。また、ある人達も無視しています。自分達の信条に無い都合の悪いことを、曖昧にし無視することは、ユダヤ教徒みたいです。
 次に「人は我々の一人のように、善悪を知る者になった。」では、我々の一人のように
と言っています。数人の内の一人です。ここには数人いるということです。(三つにまして一人の神、というような一人ではない。)
 次にバベルの塔事件のことです。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。~我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」ここでは提案と呼びかけ、があります。もし一人なら無言で行動するでしょう。数人の人がいたので、提案と呼びかけ、がありました。「あの説」では一人だが、子なる神様と聖霊様が、父なる神様と一体化
しているそうですが、それなら父なる神様の考えに反対するわけがないので提案する必要
はないと思います。
 新約時代になって、イエス様がバプテスマを受けたとき、天から父なる神様の声、ハトのように天から聖霊様が降り、イエス様はヨハネから洗礼を受けました。父なる神様、
子なる神様(イエス様)、聖霊様の三者が同時に出現しています。これは三人の人が違う
場所にいないと不可能です。これを一人で演じる事は不可能です。
 イエス様が弟子たちに再臨の時期について質問された時、「その日、その時は誰も知らない、天使たちも子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」と言いました。イエス様は「私も再臨の時期は知らない。それは父なる神様が決めることです。その心に入ることは出来ません。」ここにも二人の人がいます。
 次に十字架刑の前のゲッセマネの園の祈りのイエス様ですが、イエス様は何とかして
この苦難から逃れられるように、父なる神様に必死にお願いしましたが、冷たく拒否されました。ここにも意見の違う二人の人がいます。