「土台の弱い建物」

 もし建物の土台が弱かったら、その建物はグラグラして、とても不安定です。
イエス様はマタイの福音書で、その事を話しました、そのことはとても重要です。
 ここでは別の意味での土台について書きたいと思います。その土台とは創世記の「我々」が誰であるか知っているかどうかです。「我々」と言う三人の神様が心の底辺に、ずっしりあれば聖書全体が理解できます。
 ところが、その土台(創世記の我々)が無いと、神様の明確なイメージがないので、
聖書を読んでも、ぼんやりしたイメージしかありません。
 例えばイエス様のバプテスマの場面を「あの説」の三つにまして一人の神でイメージして見ると、どうして一人なのに同時に三人が現れるのか?と、どうしてもフィクション
(作り話)のイメージが拭えません。ところが「我々」と言う三人の神様でイメージすると、スムーズに本当にあったことだと思えます。
 またイエス様が十字架に架けられる前夜、ゲッセマネの園の祈りのシーンでイエス様
は父なる神様に何とかして、十字架刑を受けなくていいように祈りましたが、父なる神様
は頑なにイエス様の切なる願いを退けました。ここにも二人の人がいます。
 このように聖書の重要な場面で創世記の「我々」が出演します。ですから、「我々」が誰であるか知っていないと、聖書が理解できません。それは土台の弱い建物のようです。