暖かく無関心なホッとする人(P君)1420話

 午後5時30分、D君のインプレッサは会社の仕事帰り、アパート近くの食堂に着いた。
🚙 店に入ると
店員 「いらっしゃいませ。」
D君 「かつ丼。」と言って、空いている席に着いた。もうじき結婚式がある。イベント
  の前にはなぜか「かつ丼」を食べたくなる。そういえば教会の牧師先生にリカちゃん
  との結婚の許しをもらう前も,かつ丼を食べたような気がする。///////////////////////////////
しばらくしてから「かつ丼」が運ばれてきた。彼は下を向いて無言で祈った。。。。。
。。。。。。。食べながら考えた。「9月14日(木)で出エジプト記は終わる。結婚式は
9月18日(月)だ。15日、16日はどうしようか?区切りがいいところで結婚してからの方が民数記を読み始めるのにいいと思う。。。。。。。。。。。。。。。。。。。そうだ、
15日16日は出エジプト記の復習をしよう。前にリーダーから聞いた。創世記は小学校の
算数のようで割と理解し易い。でも次の出エジプト記は中学校の数学のようで段々難しく
なっていく。わからないまま次に進むと次も理解できなくなるから、時間がかかっても
いいから、疑問が解けるまで考えてから次に進まないと聖書が理解できなくなる。そこで
大切なことは、聖書の基礎は創世記にある。その基本の上に出エジプト記がある。だから
聖書は本来、統合性がある。でも創世記にたびたび出てくる「我々」という複数の方々が
天地やアダムを創造されたのに、どうゆう訳かユダヤ人は創世記を無視し出エジプト記
の方を(しかもモーセが書いた2回目の十戒石板だけを)重んじている。どう考えても
創世記の「我々」という方々と出エジプト記の神と一致しない。どうやら最初モーセが山で主から貰った十戒石板に、そのヒントが隠されていたと思うが大事な最初の十戒石板をモーセが投げつけ砕いてしまった。その砕かれた最初の十戒石板(オリジナルバージョン
)を彼は復元できそうな気がする。」と思った。
                                    つづく