「人間製造プログラム」

 これは聖書の創世記に基づいて、人間がどのような過程で創造され
たかを細かく書きました。これを読むと、神様の本当の姿、「あの説」
の神の間違えが、よくわかります。
 父なる神様は相続者として子なる神様(イエス様)を選びました。
父なる神様は万物を創るだけの材料を子なる神様(イエス様)に託し
ました。それで子なる神様(イエス様)は聖霊様(神の霊)に協力し
てもらいました。万物のイメージが出来上がったところで子なる神様
(イエス様)は、言葉を発しました。「光よ、あれ」こうして、光が
出来た。子なる神様(イエス様)が言葉を発すると、不思議なことが
起こり、それまで存在しなかった物が存在するようになりました。
一日目の光の創造から始まって、六日目の地上の動物の創造まで進み
ました。しかし子なる神様(イエス様)は自分が創造した、これらの
物を見てまだ何かが足りないと思い、父なる神様と聖霊様を呼び次の
ように言いました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。
そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配さ
せよう。」
 あとの二人の神様も、この発言に賛成し、人間を創造することにな
りました。全員の希望で、この人間と呼ばれる生き物は神様をモデル
として(人間を見れば神様の姿がわかる)創造することに決定しました。
そして記念すべき、その第一号はアダムという人間に決まりました。
 まず、アダムの青写真、設計図にする人を我々三人の内から選らば
なければなりません。新約聖書にはイエス様のことを最初のアダムと
書いてあります。つまりイエス様はアダムのモデルだったと思います。
 この辺で少し立ち止まって考えて見て下さい。子なる神様(イエス様)
の提案で人間を「我々」の誰かに似せて創ることになり、そのモデル
は子なる神様(イエス様)が選ばれました。イエス様はアダム(アダム
は完全に人間でした)と双子のように瓜二つでした。
 つまり子なる神様(イエス様)の姿は神様と言われなければ気づかない
ほど人間そのものの姿をしていました。そのような方が三人いました。
時には協力しあい、時には意見が食い違いました。人間が三人いれば、
よくあることでイメージ出来ます。神様も人間と同じような姿なので
イメージ出来ます。これが聖書的な神様の姿です。その神様の姿は
三人いて、みな人間のような姿をしていて、よく意見交換をして、皆
の賛成が得られないと新しいことを始めないという、社会人の鏡のような
紳士的な方です。決して我を押し通すタイプではありません。
 このブログ「神様は一人に執着した人」で書いたユダヤ教徒は相手の
気持ちを無視し、最初の十戒石板と二回目の十戒石板は同じ物と勝手に
決めつけました。その結果、主を殺してしまいました。「あの説」支持者
も「あの説」に執着し、どこまで行っても神様は一人に執着しています。
両者とも聖書を読んでいるとは思いますが、創世記は読まないのでしょうか?
それとも創世記に書いてあることを軽んじて、無視し、その書を聖書として
見ていないのでしょうか?最後に思いついたことですが、警察官の目の前で
犯罪を犯している人を見たなら、警察官は犯人を現行犯逮捕します。彼は
言い逃れできません。そのように神様の姿が創世記に書いてあるのは決定的
証拠で誰も言い逃れできません。なのにまだ「あの説」を持ち出す人は
警察官と犯罪を犯している人とが、目が合っているのにもかかわらず、
私は犯罪を犯していません。と言う人のようです。警察官は黙って彼を逮捕
するでしょう。