「第二の宗教改革」

 いきなり過激なことを書きましたが、マルチンルターが、し忘れた事を
今のプロテスタント教会は、しなければならないと思います。これをして
ようやくAC313年以前の初期教会の姿に戻れると思います。この教会(パソコン)
を初期設定に戻さないと聖書理解と言うソフトは使えません。このソフトが
使えないと大変困ったことになり、聖書を曲解して変な解釈をしてしまいます。
結果として、その国にはリバイバルが起こりません。ですから、このことは
クリスチャンだけの問題ではなく、その国全体の問題です。
 ルターはローマカトリック教会に嫌気がさし、もっと聖書的な教会にしようと
言うビジョンを持ってプロテスタント教会を始めました。ですから、これは彼の
意志を継いでいる、決して異端ではないことは断言できます。これがもし異端
だとしたら、聖書は異端の書と言う事になってしまいます。それほど聖書的
です。もし、これらに賛同しない人がいたら、その人こそ本当の異端者です。
 まず「あの説」の、三つにまして一人の神、ですが聖書の何処にも一人の
神と言うはなく、「我々」でした。神様は時には後の二人の神様に
相談しました。「我々に似せて人を創ろう。」と言ったように人間は神様
の姿に似ています。だから一人、二人、三人とハッキリわかります。決して
三人が合体した奇形のような醜い姿の神様ではありません。
 パウロが言うように父なる神様は永遠の昔から存在し、一番はじめに
子なる神様(イエス様)を創造した。そして、その子なる神様(イエス様)
が万物を創られました。(だから使徒信条の、「我は天地の創り主、全能の父なる神~」
と言うところは間違えです。)
 またゲッセマネの園の祈りと十字架上を見ればわかるように、このとき二人の神は
対立していました。一人は何とかして、この難局を回避して下さい。と頼みましたが
聞き入れてもらえず、一人は冷酷に死刑を実行しました。これは明らかに二人の全く
違う考えの人です。
 イエス様のバプテスマの場面では三人の神様が同時に違う場所に出現しています。
このように聖書をよく読めば、「あの説」との矛盾だらけです。ルターは忙しかったのか
知りませんが、これらの間違えを指摘しませんでした。これらを指摘して、やっと
ルターの宗教改革は完成します。