暖かく無関心なホッとする人(P君)5826話

D君(やっとその時が来た。確か青年会の皆が教会内で「津田SL」と言い始めたのが、一月中旬だったから、約三か月掛かったわけだ。最初のうちは変なことを言ってるな。ぐらいで
あまり気にしていなかっただろうけど、それが三か月も続くので、これは異常なことだと思って僕に聞いてきたのだろう。ここで論破するのは簡単だけど、そのあとに傷を残すことになる。落ち着こう。相手に問題を考えさせるんだ。答えは言ってはいけない。)
 D君はコーヒーを一口飲む間に、そう考えいていた。
D君 「僕は最近マタイによる福音書20章以降のところをよく読んでいます。ここはイエス
   様が十字架に掛けられる直前の重要な教えが書かれています。それはどんな人が神の国に入れるかが。それで23章に入りました。ここでイエス様は散々パリサイ人や律法学者の行動を非難しました。でも弟子たちには「あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなた方の教師はただ一人であり、あなたがたは皆兄弟なのだ。」と釘を刺しました。多分、怒りの表情だったでしょう。パリサイ人らが民衆から先生と呼ばれ、有頂天になっているのを見て怒りが頂点に達しているのが目に浮かびます。そのくらいイエス様は先生という言葉を嫌っていました。なのになぜ教会でその言葉を使うのでしょうか?僕にはわかりません。
その理由はなんですか、僕に教えてください。どうしてもわかりません。
                                     つづく

暖かく無関心なホッとする人(P君)5825話

4/20(土)10:45 あれからD君はいつ教会の青年会以外の人たちに、、マタイによる福音書
23章問題を掲示したらいいのか考えていた。(これは一発勝負だ。もし失敗したらもう二度とチャンスは来ないだろう。リーナパパに夕食のとき、マタイの福音書23章問題を聖書から
説明し、相手を論破し、説き伏せることはできないわけではないけれど、それでは相手との間にしこりがのこり、相手のプライドを踏みにじることになってしまう。それだけは何としても避けたい。なのでこの何週間かの間、悶々と悩み続けた。....................................
 ところが最近になってある考えが突然頭に思い浮かんだ。それは「相手の心を動かすには
相手にそのことを考えさせること」と「習慣化されたことをやめさせるには、それよりもっと魅力的なことを提供するしかない。」ということだった。「なるほどそうかわかった。」と彼はテストで答えがわかった生徒のように嬉しくなり、やっとリーナパパに話す気になった。
 先週の日曜日、いつものように礼拝後リーナの家に行き、夕飯のカレーを作り、夕飯を食べ、コーヒーを飲みながら一休みしていた。食卓には僕とリーナパパしかいなかった。


リーナパパ 「ちょっと気になっていたのでD君に聞きたいんだけど、いいかい?」


D君 「はい、何でしょうか?」


リーナパパ 「教会の青年会のみんなが津田牧師のことを「津田SL」または「SL」と呼ん   
       でいるが、いったいあれは何だい?」
                                      つづく

暖かく無関心なホッとする人(P君)5824話(改)

2/19(月)18:25         
D君(このことは書くべきか否か、悩んだが一番大切なことは、「イエス様が神の国に
いてほしい人だけが、神の国に入れてもらえる。」ということだと思います。ですので
イエス様の立場に立てば「ああ、こんな人が神の国にいたら嫌だなあ。私の父なる神様も
きっと同じ思いだろう。」と言って神の国から除外されます。なんでこんなことを書くか
というと、先日書いたマタイによる福音書23章問題を考えるのが不愉快な指導者が多いと思いますが、不愉快だからといって、考えないのは間違っていると思う。不愉快な思いをしているのはイエス様の方です。
 もう一度、マタイによる福音書23-8を読んでみた。「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」ここでイエス様は12弟子に向かってこう言った。つまりイエス様の弟子であり続けたいなら、「誰かが自分に向かって先生と言ってきても、そのことを丁寧にマタイによる福音書23章から説明し、同時に自分は先生ではないことを明言する責任があるということです。
そこのところをうやむやにすると大変なことになると思う。つまり自分に対して「先生」と
呼ばせる人をほっておくなら、その人はイエス様の弟子ではないことになってしまいます。


 その日には、大勢の者が、わたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって予言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。
 『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
                         (マタイによる福音書7-22~23)
イエス様が知っているのは弟子だけです。(この人たちは「主よ、主よ。」と言っているのクリスチャンでしょう。また、予言(神様に今日メッセージしなさいと言われた御言葉)出来る立場の人、悪霊を追い出すぐらい力のある人、奇蹟を行う人、これらを読むとただの
信徒ではないと思います。でもイエス様は彼らに向かって「不法をなす者ども」と言って
受け入れませんでした。イエス様の語った御言葉は全て神の国の法律です。


「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。~」(マタイによる福音書23-8)も
法の一つです。そして「呼ばれてはいけません。」だから信徒側が「先生」と呼ばなければ
問題は起きないはずです。なのに「先生」と信徒が呼んで、それに牧師が答えるから問題が
生じる。牧師も信徒もマタイによる福音書23-8を読んだことが無いのか?読んでも心に止めないんだろう。この心に止めるか、止めないかがマタイによる福音書25章に出てくる賢い5人の乙女と愚かな5人の乙女を分ける境界線だと思う。またどうして「先生」という呼び名
が良くないかというと、「先生」という人の頭の中は、ある考えで完成されていて、他人の
考え方に耳を傾ける余地が微塵もない。「弟子」はそれとは全く違い、先生(キリスト)の語る御言葉を何の疑いもなしに素直に受け入れる。それが本物の信仰。
                                    つづく


























                                     つづく